感情と社会 17

Civilisation 「文明化」という感情

エリアスを読みながら前回触れていた civilisation、この、日本では「文明化」と翻訳されていることばが、歴史的に見ると、礼儀作法、つまり他人の目を気にするという世間体であったことが、前の16節で、少しお分かりいただけたかと思います。このことばを使っている文化圏での、civilisation にへばりついているイメージ(繰り返しますが、イメージは社会に共有されている実体のないルールです)は、「文明開化」から始まった、技術革新や風俗や制度の「近代化」、そして「進歩」という、日本では一般的な「文明」ということばのイメージとは、おそらく今日でもなお、遠くかけ離れたものです。

ことばには「意味」があって、それは表記とは別の観念、概念のようなものだ、という見方が、おそらく一般的でしょう。「き」という音、あるいは漢字表記の「木」は、<樹木一般>という「意味」とは別物、じつは関係がないものだ、そうソシュールも考えていたと。その通りなのですが、そのソシュールも、もちろん見逃さなかったのは、その無関係なもの同士が、人と人との間の意思疎通の共有物としてちゃんと使われているということです。もちろん、「き」という音、あるいは「木」という表記は、ある社会集団内での約束事として、それは<樹木一般>のことにしようね、という合意を表しているにすぎません。ことばが機能するには、表記がなにを指しているかという約束事が共有されている必要があります。つまり、ことばというのは、ほかの社会慣習と同じで、実在するはずもないイメージの共有によって機能しているということです。
だから、たとえばフランス語の arbre が、日本語の「木」と<同じ>だ、つまり arbre は「木」に<翻訳>できる、と思い込むのは間違いです。フランスの文化圏でイメージが共有されている<樹木一般>と、日本の文化圏でイメージが共有されている<樹木一般>とが同じだと保証してくれそうなものは、じつはありません。
言葉の表記(「木」とか arbre とか)と結びついているのは、意味とか観念のようなもの、つまり国語辞典に書かれているようなものではなく、その言葉を使用している文化圏に、たまたまぼくたちが生きている空間で共有されている感じがするイメージです。


<翻訳>というのは、ある言語から他の言語への<意味>の置き換え、そう思われています。そうすれば外国語の<大意>は伝わると。でも、それが違うことに、これでうすうす気づいていただけるでしょうか。
ぼくは大学でドイツ文学を専攻していました。授業などではさんざん<翻訳>(「文学演習」あるいは「訳読」と呼ばれている風習)を経験しましたが、その作業には最初から違和感がつきまとっていました。
文章の中にある花が出てくる、それを辞書で引くと「西洋アザミ」とある。だから翻訳者はそれを、ほとんど何も感じないまま、「西洋アザミ」と訳します。でも、「アザミ」と「西洋アザミ」とはまるで違います。単に植物分類学的に、図鑑とかを見た時に、とかいったような違いに留まるものではありません。西洋アザミの中でもアーティチョークと呼ばれる仲間は、ヨーロッパでは食材になっています。日本人はアザミは食べません。当然、西洋アザミが生息している地域では、その植物との独特の長いつき合いの歴史があります。ある地域では、アザミは農作物ですらあります。こうした事情に伴う、西洋アザミに対するいろんなイメージ、いろんな情緒があります。それは、日本にあるアザミとぼくたちとのつき合い方でも同じことです。エリアスが好んで使う表現を借りるなら、ことばには、その地域に暮らす人々のさまざまな情緒的、政治的、社会的諸要因が「編み合わ」されてできた重層的で複雑なイメージがあるということになります。
ある単語を「西洋アザミ」に置き換えること、<翻訳>すること、そうやって、「ああ、だいたいアザミなんだね」と思い込むことは、こうした、それぞれの植物に対する長い長い人々のイメージと情緒の複雑極まりない事態(編み合せ、Verflechtung)を、ないがしろにするどころか、まったく別のものにしてしまう行為なのです。<翻訳>は、原文が持っていたものとはまるで違うものを、新たに作り出してしまう作業なのです。<翻訳>は、自分が住んでいる空間とさえ違う、どの空間ともぜんぜん似ているところがない場所へと、ぼくたちを運び去ってしまいます。
<翻訳>が誤りの連続だという感じを、いやというほど味わうのは、とりわけ詩を<翻訳>している、つまり独和辞典を引きながら原文を日本語で理解しようとしているときです。詩は論理的な展開よりも、イメージの連鎖で成り立っていることが多いのです。ある詩の中では、「西洋アザミ」と訳されてしまう植物に対する感覚や情緒が、その詩の情感の流れに対して、決定的な役割を果たしているかもしれません。ある詩が blau という、「色を示す言葉」を使っていて、それを大した気遣いもなく「青」と訳したり、そうやって、これは「青」だね、と思い込んだり、もっとひどい場合には、この詩はかっこいいからちょっとかっこつけて「蒼」という漢字を充てちゃおう、というようなことをしたらもう、詩人が blau で感じていただろうこと、詩人が属していた文化圏に共有されていた blau のイメージの一切が、失われます。

では、ぼくたちが何も考えずに「文明」とあっさり呼んでしまうなにものか、こうしたイメージの「編み合せ」が大事だとも思わないまま、civilisation の<訳語>として流通しているこのなにものか、の、ヨーロッパで共有されているイメージの歴史、つまり多数の人たちのある種の感情を習慣づけるルールとして内面化されたものの歴史がどんなものだったのかを、辿ってみます。

エリアスが綿密な歴史資料の考察を行いながら明らかにしていることですが、civilisation ということばの故郷は、15世紀末から16世紀にかけての、現在ならだいたいフランスと呼ばれている地域にいた封建領主とその取り巻きの集まりである cour (これを「宮廷」と<翻訳>するとまたボタンのかけ違いが始まってしまいます)でした。歴史的な推移の詳細はエリアスの記述に譲りますが、略奪と暴力的支配に明け暮れていた当時の武装集団(封建制の支配層)は、彼らがお互いに敵対しないよう警戒をし合い、一定のルールでお互いを縛り合い、常に監視し合う必要がありました。そのひとつとして現れてきたのが courtoisie、<宮廷作法>とでも言っておきましょうか、行動の仕方の統一でした。会食の席でナイフを武器に使わないで安全を保障する、人前で手洟をかんで服に擦りつけたり、大皿に鼻水やよだれまみれの手を突っ込んだりして人に不快感を与えない、などのルールを共有して、お互いが敵同士ではない、友好的だ、という意思を、行動ルールとして表したものです。そのルールには、安全性の確保以外には、とてもとても、合理的と呼べるようなものは含まれていませんでした。鼻水やよだれが感染症を運ぶ原因になるというような衛生観念など、もちろんありませんでした。
封建制の支配者たちはやがてこの courtoisie を、自分たちが支配者であり、上流階層の人間であることを、被支配層に対して誇示するための、差別化の印としても使うようになります。俺たちはお前たち野卑な農民なんかとは違う人間なんだぞ、それどころか、お前たちとは別種の高尚な生き物なんだぞ、というわけです。(実際彼らは、同じ身分同士だと、裸になったり、おならをしたり、排泄をしたりすることは「失礼」だと感じていましたが、身分が下の者の前では、そうした行動規制はまるでなかったのです。)
そして、courtoisie を遵守する「俺たち支配者」が、支配される側と自分とを峻別するぞという感情を明示するために用いられ始めたのが、civilité でした。
16世紀ごろから使われ始めた civilité は、「他者に対する良いお作法」というイメージの言葉です。courtoisie も、「他者に対する良いお作法」なのですが、この二つの言葉の間には、じつは「他者」に違いがあります。courtoisie の言う「他者」は同じ支配者同士。一方、civilité は、支配者層が支配している人々に要求される行動様式です。
封建制が続く中で、支配層は被支配者の有力者と、たとえば領主に謁見をさせたり、饗宴の席に招いたりという形で接する機会が徐々に増えていきました。その折に、被支配者はもちろん cour における行動ルールなど知る由もありませんから、courtoisie にのっとって行動することなどできません。そこで支配者層は、こうした人々も礼を失することがあってはいけない、彼らにもお作法を守らせねばならない、ついでに俺たちがいかに高尚な人間かということも見せつけなくてはいけない、お前らと一緒ではないのだ、というので、彼らが守るべきお作法を、わざわざcourtoisie とは区別して、civilité と呼びました。徹底的な差別化の意識ですね。(「わきまえる」ことを美徳と言ってのけた人が思い出されます。)

リトレの辞書には、civilité の語源がこう書いてあります。
   bonnes manières à l'égard d'autrui. 他者に対する良い作法
「粗野」で「野蛮」な農民たちはこうして、良いお作法を教え込むべき対象、つまり civilisation の対象として扱われ始めたのです。これが、civilisation ということばの出身地です。

civilisation は、もともと礼儀作法を粗野な輩に教え込む行為というイメージでした。それは、支配層による、被支配層の教化という意思を、そしてそれだけを表していました。当時の支配層は、被支配層との差別化意識の中で、すでに礼儀作法は(完璧とは言えないまでもある程度)身につけているという自負があって、それを cour に出入りする人々すべてに行き渡らせて、支配を確実なものにしたかった、あるいは自分の<身分><品性>の高さを、とりわけ自らに証明したかったのでしょう。
封建制度はやがて様々な要因のために行き詰まっていきます。周辺の民族の侵入、その影響もあって、封土としてぶんどることができる土地の減少、限られた地域での領主同士の略奪抗争、じわじわと押し寄せる貨幣経済と分業制による、領地内で済むことが多かった自給自足経済のほつれなど。暴れまくる武装集団としての支配層は、やがて徐々にその数を減らしていき、それに代わって絶対王政、より少数の強大な権力装置の足音が聞こえ始めます。貨幣経済でのし上がった被支配層の一部は、支配層の権力維持に欠かせない地位に食い込み始めて、元々の暴力集団(騎士とも世襲貴族とも自称していた人々です)に対して、支配層はついに、いわゆる法服貴族としてのし上がって来た市民層と協働せざるを得ない状態に追い込まれていきます。
この状況の中で、civilisation という支配層の差別の意思が加速するのです。もともと支配層であった自分たちのテリトリーを守るために、とりわけ成り上がりで新参者の法服貴族たちと自分たちとを峻別するために、この、後からやって来た実力者たちに、何が何でも自分たちより下なのだということを銘記させるために、世襲「貴族」はこぞって新参者たちを教化します。教化しながらも当然、彼らは新参者たちが自分たちと同化などは決してできないのだということも、同時に叩き込みます。courtoisie はどこまで行っても支配層のみに許された行動様式であり続け、「宮廷」と関わること、政治と関わることを許された市民層は civilité しか身につけることができない。こうして市民層にはおそらく、権力のすぐそばにまで迫りながら、どうしても超えられない一線があるという屈辱感をむしろ励みにして(劣等意識)、ますます自分たちの財力と影響力を膨張させ続けたのでしょう。この状況、すでに資本主義が生まれる土壌を十分に準備していますね。

20世紀に至る数十年の間に、ハプスブルク家を最後に、ヨーロッパ列強の絶対王政は亡び去りました。それに代わって、民主制と呼べるかどうかはともかく、いわゆる議会政治の体制が一般化していきます。その経過の中で、civilisation のイメージはほんの少し、ええ、もう王様や貴族などいないのに、それにも関わらず、ほんの少しだけ、変わります。
すでに決して立ち入ることができない最上階として君臨していた世襲の絶対的支配者はいなくなったにも関わらず、自分の社会階層が「より」上にあることが確認できる感情装置としての、自分たちの階層にだけある礼儀作法、行動様式としての civilité が、新たな支配層の印としての地位を獲得していくのです。
これが、ぼくたちの今生きている世界でおそらく共有されている civilisation、civilization のイメージの核です。19世紀まであったような、courtoisie と civilité との凌ぎ合いはなくなりましたが、凌ぎ合いそのものは残りました。20世紀になって、 civilité の内部での凌ぎ合いが新たに始まったのです。世襲による確固たる身分制度が優先的な支配層を形成するという保証は、ヨーロッパ各地で失われました。それに代わって、財力をつけて社会的な影響を強力なものにして来た市民のうちの富裕層が、新たに支配層として君臨し始め、彼らが彼らの作法で、まさに彼らの流儀で、civilisation を推し進め始めたのです。それは、分かりやすい暴力に訴えない人間関係の構築、契約と法の遵守による互いの利害の尊重、相手の自由活動を認めるという自由競争の概念の遵守、市民全体の教養レベルのアップ、科学技術の推進による労働環境や生活の機能化、生活環境の衛生化など、様々な仮面をかぶってはいますが、その核心は常に、他者に対する優越性への欲望、他者との高低差を図らざるを得ない不安、そして当然、他者を自分の利益と地位に利するものとしてしか見ることができない激しい攻撃性、そしてその暴力的なぶつかり合いが当然生み出す激しい心の緊張のまま。つまり、16世紀に始まった civilité が、大きく変わった社会の身分構造にも関わらず、ずっと引き継がれている因習として続いているのです。もちろん、ぼくたちもまさに、その因習、civilisation という「輝かしい」行儀作法、日々進歩する、「持続可能」であるに決まっている、行動のルールの真っ只中にいます。形式を重んじる式典、「高級な」施設への出入り、「セレブリティ」という逆差別のイメージを作って憧れる心、会社勤務などで要求される(とはいえ、誰が要求するのでしょうね、要求する主体が不明です)<ドレスコード>という不合理としか言いようがない風習が、civilisation の出自を、今でもくっきりと描き出しています。

Civilization。ぼくたちは、(世評的に)より「良い」職種、より「高い」地位、より多額の報酬、より「高い」名声、より「良い」家族(貴族層に特徴的だった世襲制の名残ですね)、家族のより「良い」評判、より「高い」学歴、より「優れた」知識、より「優れた」住宅環境、より「良い」外見などを、それが生きることのすべてであると思い込んで、懸命に、闇雲に追い求めています。人生の大半が、それを追い求めることに費やされ、そして終わります。

ぼくが使うPCはあなたのものよりスペックが高い、ぼくが乗っている車はあなたの車種より高額で新しい、ぼくが身につける服はブランド品だ、ぼくが住むマンションはあなたより高層階にある、ぼくが出た大学はあなたの出身校とは比べ物にならないほど優れている、ぼくは「先進国」の市民だ、などなど。
「成り上がり階層の大抵の人[ぼくたちの大多数がそうです]のもとでは振舞いが奇妙につくりものめき、ぎこちなくなる。しかしそれにもかかわらずその背後にかれらの社会的存在の全く純粋で、真の苦境、すなわち上からの圧力と劣等的立場から抜け出したいという欲求が存在するのである。こうした上流階層からの超自我の刻印は、成り上がり階層に同時に絶えず全く特殊な形の羞恥心と劣等感を起こさせる。」(『文明化の過程』下巻 pp.446-7)

歴史的な展開も、文化の推移も、つまり社会の「編み合せ」全体がヨーロッパとはまるで違う日本はどうでしょう。軽々しいアナロジーは禁物なのですが、ちょっとだけ、エリアスの記述から連想できることを書いてみます。

侍Japan。
このことばに、ヨーロッパ封建制の時期から始まった civilisation に似たものを、はっきりと感じ取ることができます。人口比にしてせいぜい7%と、大した数とは言えなかった士族(職業的な武装集団)は、お互いを牽制するために、また被支配層に対して、礼儀作法が行き届いて自己を律することができることの証を示すために、そうやって被支配層を効果的に抑圧するために、じつに矛盾に満ちた行動ルールの数々を生み出しました。その最たるものは「自害」と呼ばれた自分に刃を向けて死ぬという行為でしょう。これは自らの暴力性を、また暴力を行使できるという自覚をなかったことにするために発明された、ねじ曲げられた暴力の表現、こうして私はもう誰にも危害を加えず、ただ自分にだけ危害を加えますよ、という倒錯した状態です。今であれば、これは「自傷行為」と名づけられて、大急ぎでの臨床心理的なケアが必要な状態。
日本の支配層や支配体制を、ヨーロッパの歴史になぞらえることは間違いですが、支配体制の機能化、貨幣経済の浸透、労働の細分化と分業化、各業界や各身分間の相互依存の増大、またそれに伴う心理状態の複雑化や、個の内部で互いに矛盾しあう諸感情の増大という点では、長らく日本の支配層だった武装集団が 、そう望んだわけでもなく、長い歴史の大きな変化の中で、結局当の本人たちですら理解することができない錯綜した行儀作法の風習(道徳)を身につけてしまったことは、想像にかたくありません。そして、やはり時代が下るに従って徐々に支配層に食い込んできた下層身分の人々が、この特権階級との同化を熱望して、彼らの行儀作法の風習、行動のルール、つまりは civilité を、憧れを持って吸収していきました。そしてついに、「侍」は自己を滅する凛々しい人格なのだ、という不可解な、しかし文明の最中にいる人々にとっては、まさに心をくすぐる「高級」で「上流」な人間性のイメージが捏造されます。「侍Japan」ということばが「美徳」として不気味に息を吹き返したわけです。
ぼくたちは、「進歩」している、あるいはこの国の標準的なイメージを使うなら、日増しに「文明化」され続けている、というわけではなく、ただ単に、ぼくたちの感情が、複雑怪奇に変化しているだけです。

エリアスの『文明化の過程』の最後の章に、こんな悲痛な文章があります。
「われわれ自身の時代においては、国家間の比較的大規模な排除闘争を他のもっと危険の少ない、冒険することのより少ない暴力手段によって解決しようとする傾向がますます増大しているのがひしひしと感じられる。しかしわれわれの時代においては、より以前の時代と全く同じように、編み合せ[社会動態を変化させる多様で複雑な要因の複合]の持つ強制がそのような対決へ、地球上のかなり広い部分にまたがる暴力独占の形成へ、そしてそれと共にあらゆる恐ろしさと戦争を通り抜けて地球上の平和化へ向かって進み続けているという事実は、明々白々である。そして既述のように、諸大陸の緊張状態の背後に、そして一部はそのなかに織り込まれて、すでに次の段階の緊張状態の出現が見られる。国家同盟やさまざまな種類の超国家的単位による地球を取り囲むような緊張体制の最初の輪郭が見られる。地球全域に広がる排除闘争ならびに覇権闘争の前触れが、地球全体にわたる暴力独占を形成するための前提条件が、地球全域に及ぶ政治的な中央の制度を確立するための前提条件が、そしてまた地球上の平和化のための前提条件が見られる。」(『文明化の過程』下巻pp.473-4)
エリアスは、文明化の過程と暴力、それが生じさせる抑圧と緊張と不安を、常にセットで考えています。また、戦争と平和も、一方は悲惨な状態、他方は望ましい状態、といった平板な価値観では眺めていません。「戦争とは、単なる平和の反対ではない(下巻 p.473)」のです。両方とも、複雑怪奇な要因の「編み合せ」の連続として動いている社会動態の途中経過にすぎないと、極めて冷静な観察をしています。
ユダヤ人であったエリアスは1933年にパリに亡命。この著書は亡命先で1936年に出版されました。「共和国」があっという間に消え去り、「帝国 Reich」がまた舞い戻ってきたドイツ。ヒトラーが政権を獲得して憎悪と恐怖に満ちた独裁政治を始めてからすでに3年が経過、ライン川沿いのフランス領にも侵攻、ユダヤ人絶滅は本格的に組織化され始めていました。エリアスの母親はトレブリンカの強制収容所で命を落としています。こうした状況下で、彼がこの文章を書いていることに想いを馳せると、胸がつぶれて、息ができなくなります。
「地球上の平和化のための前提条件が見られる」という言葉の前には、「地球全体にわたる暴力独占を形成するための前提条件が」見られると書かれています。当時の地球は、「あらゆる恐ろしさと戦争を通り抜けて・・・平和化へ向かって進み続けている」と彼は記しているのです。文明化の過程は、封建制の成立と崩壊の時期からすでに、暴力的な覇権のプロセスだったと考えるエリアスは、平和状態、つまり市民が絶えざる不安と緊張、奇妙な羞恥心と劣等意識に苛まれながらも、直接的な暴力だけはなんとか回避できる状態を実現するために、より強大で尊大な支配装置が出来上がって、暴力を独占、一括管理する世界が来るだろうという、身の毛もよだつような予測をしているのです。そしてこの予測は、まさしく文明化の過程が進行している現在、それが「持続可能」なのだと叫ぶ人たちに先導されている現在、とてつもない現実味を帯び始めています。国家主義がすでに綻びを見せている現在でもなお、「超大国」の覇権への野望は衰えることを知りません。

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