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響け!ユーフォニアム 〜青春の脱構築〜

 京アニが『ユーフォ』を通して描いた「青春の価値」とは何だったのか?

 ただの感想文です。
 筆者はアニメは3期まで視聴済み、原作未読です。アニメ版のネタバレを含みます。
 文字だけだと寂しいのでところどころ写真を挿入しています。あのフィルムカメラで撮影しました。

あのカメラ。フィルムはKodakのColorplus 200

本記事の概要

京アニが描く「青春の価値」

 ユーフォ3期の最後のストーリービジュアルが「青春の価値」であるのを見た時「うわ、ついにやりやがった」みたいな、妙な感想を抱いたのを覚えています。

 京都アニメーションの作品は特に「青春を描くこと」に対して自覚的であるように感じます。青春期を描くにあたって、いかに描くのか。どのようなテーマ性を作品に持たせるのか。
 例えば漫画原作の『映画 けいおん!』では青春期の日常からの変化が、ユーフォと同じく小説原作の『氷菓』では才能を巡る葛藤が描かれます。他にも枚挙にいとまがありませんが、とりあえずこのくらいで。以下の記事が参考になります。

 そんな京都アニメーションが『響け!ユーフォニアム』という作品の、しかも三年生編を作る。部活動に打ち込んだ高校生活三年間の果てに何があるのか、改めて考えられていないはずがありません。それが「青春の価値」というキーワードとしてはっきりと提示されるとは正直思っていませんでしたが、しかし間違いなく京アニはユーフォという作品を通してそれを描こうとしている。
 (青春の価値……「価値」かぁ……。青春の「価値」ってかなり強い言葉じゃないでしょうか。)
 だからこそ単なる原作のアニメ化として捉えるのではなく、アニメーション作品として『響け!ユーフォニアム』で描かれた青春とは何だったのか、考えてみたいと思うのです。そしてそれはユーフォという作品の特徴を発見し、展開の意味(もっと言えば必然性)を考えることにもなりました。特に三年間にわたるオーディションの展開や「さいごのソリスト」などには詳しく言及することになります。
 この記事が、ユーフォと青春について考える糸口となれば幸いです。

脱構築とは何か

 ここで実際に作品を考えるにあたって、キーワードとしたい概念を紹介します。それが現代思想用語である「脱構築」です。
 筆者は哲学を専門としておらず、単に新書を数冊読んだことがあるだけの哲学趣味者です。この感想文でわざわざ脱構築という言葉を持ち出すのは、なんだかカッコよくて使ってみたくなった 脱構築という概念がユーフォという作品で描かれる青春と、自分の中で不思議と共鳴したように感じたからです。
 私の理解では、「脱構築」とはある二項対立について、それが二項"対立"にならないような、或いは優劣がつかないような新たな論理を見出すこと、だと考えています。そのために既存の価値観を疑い、時には二項対立の関係を転倒させ、一方が主導権を握るようなことが保留されている状態を描出する、といった手続きが行われます。
 ユーフォという作品においては、様々な価値観の二項対立が登場します。それら二項対立が、各キャラ=<価値観・物語>の相互作用によって、必ずしも一方が肯定され他方が否定されるわけではない結論に到達するのです。そこからは単なる価値観の提示・支持を超えた、より深く本当に意義あるものが見出されます。そしてその終着点こそが「青春の価値」だというわけです。ユーフォを全体主義的な作品だと見る見方もありますが、必ずしもそうでない、むしろ大事なのはそこではない、そんな話をこの記事でしていければと思います。
 脱構築という用語については議論の余地があるかと思いますが、ひとまず本記事ではこういう意味として使います、ということでご理解下さい。
 詳しく知りたい方は千葉雅也氏の『現代思想入門』が初めの1冊には良いと思います。(というか自分も現代思想関連ではまだそれくらいしか読んでません……。)

『響け!ユーフォニアム』の脚本の特徴

 作品の特徴を発見すると言いましたが、その一つが先に述べた脱構築的な手続きを通じた青春の表現です。他の点も含め、具体的に作品の内容を追う前にざっくりと「特徴」が何なのかまとめて述べてしまいたいと思います。
 ユーフォという作品では様々な対比表現や対立する価値観が提示されます。それらは特に主人公周りの葛藤としてドラマを形作っていくわけですが、この段階で価値観や物語が他のキャラクターに外部化されることが多々あります。これには主人公周りのエピソードとして望ましくない展開を避けると同時に、後になって過去に提示した価値観を再提示することで対立関係を表出させる役割があります。そして主人公周りに対立構造が回帰することで、新たな段階へと進むことになります。
 すなわち、ユーフォという作品は他作品と比較して、特に以下の点が徹底されていると思います。

1. ある価値観がある時、それに対立する価値観を提示する
 1.1 これは様々なパターンの網羅性にもつながる
2. 主人公を取り巻く葛藤や価値観を他のキャラに「外部化」して展開する
3. 外部化した物語が跳ね返ってくることで「脱構築」が行われる
4. 「脱構築」的な展開により、青春の本当の価値へと到達する

『響け!ユーフォニアム』特徴ざっくりまとめ

 それではアニメ第1期から順に見ていきましょう。

アニメ1期 〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜

意味不明な気持ち

 黄前久美子が入学した北宇治高校吹奏楽部の物語は、滝先生に導かれるようにして始まります。全国を目指すこと、そしてそれが必然的に実力主義を招き入れること。あくまでも「自主性を重んじ」た結果とはいえ、滝先生なくしてはきっかけがありませんし、滝先生なくしてはその遂行ができなかったでしょう。(吹奏楽は様々なスポーツ系部活と異なり、ライバルが身近にいるわけでも数値化できるわけでもないので、ヴィヴァーチェ!の歌詞にもある通り)「タクト」が必要なわけです。
 そんな環境で、黄前久美子は中学時代の同級生である高坂麗奈と再会します。「特別になりたい」と言う高坂麗奈の影響を受けて、黄前久美子も本気で吹奏楽に向き合うようになっていくことになるのです。
 「上手くなりたい・特別になりたい」というのはユーフォを貫くキーワードにもなりますが、この気持ちはどのようなものなのでしょうか。明確な理由は明言されていない、むしろ避けられていると言ってもいいでしょう。大吉山のシーンで高坂麗奈自身も特別になりたいという気持ちを「意味不明な気持ち」だと言っています。この段階で黄前久美子をひたむきな努力に向かわせる気持ちは、言わば衝動的なものなのです。
 (余談ですが、ここでの黄前久美子の変化は新しい自分を形成したというよりは、自身の中に眠っていた衝動を高坂麗奈により掘り起こされたというイメージが適切なように感じます。「いい子ちゃんの皮をペリペリってめく」られたわけです。)
 3期に続いていく話題になりますが、黄前久美子の青春は滝先生と高坂麗奈に導かれ、意味不明で衝動的な気持ちによって努力が始まります。この段階での「頑張ること」には、意味や理由付けがまだないのです。それを見つけていくこと、その価値を発見していくことが3年間をかけて吹奏楽と共に展開されていくテーマになります。

宇治橋 ~京阪宇治駅付近から~

実力主義 ~1つ目のオーディション~

 さてそんな1期のクライマックスが、トランペットソロのオーディションです。実力で上回る高坂麗奈と三年生の中世古香織、「実力主義 vs 功績主義」とでも言うべき構図がここにあります。一度は滝先生のもとで高坂麗奈が選ばれますが、部員の反応も鑑みて再オーディションとなります。オーディションでは吉川優子が中世古香織に、黄前久美子が高坂麗奈に票を投じるのみで、多くの部員はどちらにも拍手を送りませんでした。結局、中世古香織が自ら負けを認めて高坂麗奈がソロに決定します。
 滝先生、高坂麗奈、そして黄前久美子によって北宇治の実力主義が確立された瞬間です。この時掲げた実力主義という「正しさ」を、黄前久美子たちは三年間背負っていくことになります。
 一方の中世古香織は実力の差によって敗北します。ただし、ただの敗者としてオーディションで否定されているわけではないということを補足したいと思います。それが吉川優子の涙です。吉川優子が中世古香織にソロを吹いて欲しいと願ったのは、自身が中世古香織を好いているという以上に、中世古香織がトランペットのことを「上手じゃなくて、好き」だからです。吉川優子は実力主義を認めつつも「好き」だという気持ちに対する肯定・祈りを示したキャラクターです。だからこそ、1期で主人公たちと敵対するポジションでありながら、翌年の部長を立派に勤め上げられるのだと思います。

アニメ2期 〜届けたいメロディ〜

「好き」を巡る物語

 アニメ2期には、楽器が好きだとあっけらかんと言うキャラクターが物語を中心的に形作っていきます。それが、フルートが好きだという傘木希美、もう一人がユーフォが好きだと言う田中あすかです。
 それと対比的な存在がこの作品には登場します。傘木希美との縁に縋りつくようにオーボエを吹く鎧塚みぞれ、そして田中あすかに質問された時に「ユーフォが好きだ」と答えることを躊躇する黄前久美子です。
 特にこの田中あすかと黄前久美子のやり取りは、私が確認した限りでは劇場総集編で新たに追加されたシーンです。しかも1期12話での黄前久美子は「ユーフォが好きだ」と何度も言っています。あえてシーンを追加したことにテーマ上の重要性があると考えるのはあながち的外れではないでしょう。
 以下では傘木希美・鎧塚みぞれのエピソードを確認した後、田中あすかを巡るエピソードから黄前久美子について考えていきます。

すれ違う「好き」

 傘木希美と鎧塚みぞれは1年生時のすれ違いに囚われており、周囲に助けられてお互いに対峙することですれ違いを解消する、というのがアニメ2期における前半のあらすじです。

 傘木希美はフルートが好きであるが故に、以前の吹奏楽部の雰囲気を受け入れられず退部することになります。「好き」だからこそ損をすることになる、それが傘木希美です。滝先生が来る以前、好きな演奏を続けるために吹奏楽部に残った田中あすか、好きな演奏を続けるために吹奏楽部をやめた傘木希美、「好き」を思い通りに貫くことの難しさが対比的に描かれているとも言えるでしょう。己の「好き」とどう向き合うか、後半の田中あすかのエピソードへと続いていきます。

 一方の鎧塚みぞれは、傘木希美への執着からオーボエを続けています。鎧塚みぞれは努力を重ねてきた実力者ですが、1期時点での黄前久美子と同じく努力そのものが先行している状態です。吉川優子の説得では「あんだけ練習して、コンクール目指して、本当に何もなかった?」という問いかけがあります。努力が報われてきた瞬間があったことを認識し、鎧塚みぞれは光の中へ引っ張り出されるのです。関西大会後、鎧塚みぞれはコンクールのことを「たった今、好きになった」と言います。意味や理由付けから疎外された努力の先にも得られるものがあること、黄前久美子のエピソードにも通じるテーマが、ここでは提示されていると見ることができます。

 二人の関係はリズと青い鳥に続いていくわけですが、ここで個人的に特に印象深かったシーンを取り上げたいと思います。それが、田中あすかが「みぞれはずるい性格してる」と言うシーンです。偉そうな言い方になってしまいますが、私がユーフォという作品を「信用」するに至ったのはこの瞬間だったように感じます。田中あすかというキャラクターのエピソードを補強する伏線でもありますが、別の価値観・別の視点が提供されているわけです。良い話をただ気持ちいいだけの良い話にしない、キャラクターを悪者にしないし単なる良い人にもしない、そんな作品の姿勢に感銘を受けたように思います。このような記事を書くことになったきっかけも、遡ればこのやり取りだったかもしれません。

「好き」と憧れ

 アニメ2期、特にその劇場総集編は田中あすかを巡る物語です。
 コンクールなど部としての活動そのものがどうでもいいほどユーフォニアムが好きであり、ユーフォニアムが吹ける場所としての吹奏楽部に在籍し続けた田中あすかですが、全国大会を前に母親からの圧力で一時的に部を離れることになります。ここには受験のために自ら部をやめた斎藤葵との対比を見て取ることができます。受験と部活の対立において受験を優先する価値観を、自分ではなく他人から与えられています。(実際には父親絡みでもう少し複雑ですが。)ユーフォニアムという「好き」を与えてくれた父親に全国大会で演奏を聴いて欲しい、ただ演奏できればいいという以上のことに田中あすかは向き合っていくことになるのです。
 北宇治高校の吹奏楽部、特に黄前久美子は田中あすかが復帰するよう奔走します。しかし最終的には、田中あすかは模試の成績という自らの力によって部への復帰を果たしました。受験と部活の対立を自力で両立に導いたのです。結局この問題は田中あすか自身が解決しなければならなかったのですが、それでも黄前久美子の訴えは確かに田中あすかの心を動かしたでしょうし田中あすかが部への復帰を決めるには必要なことだったでしょう。

 それでは黄前久美子の訴えはどのようなものだったでしょうか。大きく二つの点が強調されています。一つは「あすか先輩に自分の好きを諦めないで欲しい・そのために頑張ってほしい」ということ、もう一つは「自分自身があすか先輩と吹きたいのだ」ということ。
 何のためか分からない状態の努力ですが、黄前久美子自身、ここでは一つの目的を発見することができます。それは努力によって「好き」という気持ちが報われるようにすることができる、ということです。他のエピソードで描かれる演奏技術向上のための努力とは少し毛色が異なりますが、田中あすかの姿は努力によって得られる価値あるものの一つとして黄前久美子の目の前にあるのです。

 「ユーフォが好きだ」という田中あすかは2期総集編では努力が先行している黄前久美子と対照的に位置づけられています。そんな田中あすかの姿は、黄前久美子には自分自身よりも「本物」らしく映ったでしょう。黄前久美子は「あすか先輩みたいなユーフォが吹きたい」と言います。滝先生、高坂麗奈に導かれてきた黄前久美子に「憧れ」という努力の方向性が生まれたのです。意味不明な衝動から始まった努力が方向性を持ち、より黄前久美子の青春を形作っていくことになります。

水管橋

リズと青い鳥

主従の脱構築

 リズと青い鳥については多くの方が非常に面白い考察記事を公開されていますし(例えば以下のリンク、偶然にも「誇り」がキーワードとされていますね)、本題となる黄前久美子の物語からは外れるので、少し触れるに留めます。しかし敢えて「脱構築」をキーワードとした時、『リズと青い鳥』という作品以上にそれが当てはまる作品を私は知りません。

 ここで主従と言ったのは「主従関係」ではなく「関係の主従」についてです。単なる言葉遊びに見えるかもしれませんが、関係そのものではなく人間関係の中に存在する要素としての主従を考えています。「誰々がこうだから私は……」みたいな行動や価値観は対等な関係にあっても普遍的に存在すると思います。

 『リズと青い鳥』では様々なセリフ上・映像演出上の対比がありますが、一番のトリックは言うまでもなく「鎧塚みぞれ=リズ、傘木希美=青い鳥」という構図がクライマックスで逆転することです。では最終的に「鎧塚みぞれ=青い鳥、傘木希美=リズ」で決着するのでしょうか? そうではありませんよね。どちらかが片方の物語を引き受けるのではなく、「傘木希美と鎧塚みぞれの二人 = 『リズと青い鳥』」になるのだと、言うことができるのではないでしょうか。
 二項対立図式を転倒させ二つに優劣がつかないような新たな論理を見出していく、これはいかにも「脱構築」な感じがします。二人は互いに持っている執着を (完全でないにしろ) 解きほぐし、少なくとも自身があるべき空へと羽ばたいていくことに成功するのです。

 ちなみに「脱構築」という概念はジャック・デリダが初めて用いたものですが、デリダは特に「差異」に注目した哲学者らしいです。デリダの哲学を学べば、『リズと青い鳥』を更に深く読めるようになるのかも……?

黄檗駅から宇治方面へ

誓いのフィナーレ

努力というプロセス 〜2つ目のオーディション〜

 『誓いのフィナーレ』で描かれるオーディションでは後輩側が実力で上回るという状況は同じですが、後輩側=久石奏がオーディションで手を抜くことでより部に対して功績のある先輩に譲ろうとするという、1期と対比されるような展開が軸となります。

 久石奏は「上手くなることよりも皆が納得することが大事」だと主張します。1期のオーディションで拍手をしなかった多くの部員が頭の一部では持っていたであろう価値観を、オーディションの当事者として表面化させるのです。真剣に吹くよう久石奏を説得する黄前久美子は「上手くなって何になるのか考えたことない」、しかしそれでも「その先に何かあると信じている」と、努力そのものへの信奉を口にします。その上で、久石奏の演奏の上手さ・そこに至る努力を肯定します。そして、どのような結果であっても本気で吹いた久石奏の味方をする、と。
 この段階でもまだ黄前久美子の中では努力することが先行していますが、その先に実力が培われていくことがより実感を伴って描かれています。努力することだけでなく「努力することで上手くなる」というプロセスを自分のものにしている状態です。それにより、一年生時点では他の人に導かれた黄前久美子が他人を導くことができる状態まで成長していると言えます。意味不明な気持ちに引っ張られるような状態から、自分自身を主体的に努力へ向かわせられる状態への変化、これは三年生編でこれまでの努力の真価を見出していくにあたり重要なステップだったでしょう。

 結果として、中川夏紀も久石奏もコンクールメンバーに選ばれます。先輩を差し置いて後輩がメンバーになってもいいという価値観は、加藤葉月の落選というエピソードへ外部化されています。この外部化は、価値観をユーフォニアム奏者の結果に反映することを避けつつ提示するという効果もあるように思われます。

黄前久美子の涙

 関西大会直前、黄前久美子は中学生時代にダメ金だった時の自分を振り返って「私泣けなかったんだ」と語ります。これを受けての関西大会でのダメ金という結果が『誓いのフィナーレ』という作品とそこまでを通じた黄前久美子の総決算であり、作品を締めくくる最重要エピソードです。しかしこのセリフがあるにもかかわらず、関西大会の結果が出た後の黄前久美子の涙は描写されていないのです。これに気づいた時が個人的には一番衝撃でした。もちろん1期の段階で悔し涙を流す描写があることが前提になっていますが、作品としての完結性を考えるなら涙の描写を入れるのが自然だと思います。しかしそのように描写されてはいません。泣けなかったくらい適当にやっていた人が本気で取り組むようになって泣けるようになりました、ではないのです。
 悔し涙を流すのは、久石奏です。一方の黄前久美子はそんな久石奏の姿を見て晴れやかな表情をしています。「頑張っていないから悔し涙が出ない」と「頑張ったから悔し涙が出る」という対立が、過去の黄前久美子と現在の久石奏への外部化によって展開されています。その対立を超えて、現在の黄前久美子は涙の有無と関係なく自身の努力を信じることができる、そんな新たな段階に到達しているのではないでしょうか。私はここに、ユーフォという作品が脱構築的に深化した価値を提示していくという性質を読み取りました。

ベンチ

アンサンブルコンテスト

実力主義の「平等さ」

 アンサンブルコンテスト編では部長になりたての黄前久美子が、慣れない役職に翻弄されつつ部をまとめていく様子が描かれます。
 この作品で重要なことは「誰もがコンクールメンバーを目指していい」という実力主義を、『誓いのフィナーレ』とはまた異なる見方で再確認していることです。実力主義は誰かを置き去りにするものではない、努力が報われる平等な世界としての北宇治の実力主義を再確認しているのです。加えて言えば黄前久美子が「努力して上手くなる先に何かがある」と信じられることは、そのような皆に平等な実力主義を掲げればこそなのです。
 そしてこの実力主義の平等さを、ここでは釜屋つばめというキャラクターに「外部化」しています。アニメ3期では黒江真由を巡る葛藤において、釜屋つばめが黄前久美子の思い描く実力主義を引き受けた人物として登場することになります。

あの公園

アニメ3期

「特別」の意味

 黒江真由という本題に入る前に「特別」を巡る黄前久美子と高坂麗奈のやり取りを確認したいと思います。
 高坂麗奈は今後の進路によって黄前久美子と離れ離れになることに繰り返し言及しています。それに対して黄前久美子はこれからも何も変わらないと返し、「私達は特別だから」(あがた祭り時点)「麗奈は(私の)特別だから」(最終オーディション直前時点)と理由を挙げています。ここでの「特別」は『さいごのソリスト』後の大吉山でのシーンにも関わってきますが、「青春の価値」についての節で改めて言及します。

 「特別」というのはアニメ1期時点から繰り返し使われてきたキーワードであり、他の人とは違うということが強調されました。一方ここではその特別が、二人の関係性を「変わらないもの」にしているというある意味では逆説的な使われ方をしています。脱構築というよりは解体でしょうか、二人の関係は特別でないことをも特別にするという境地に達していると考えられます。人と違うというよりも、自分自身がどこを目指すか、そしてそれを目指していく姿勢にこそ「特別」の意味がある。他者との比較ではなく自分自身の中に特別の基準を築き上げたのです。そして高校三年間の二人の関係は、今後の人生がどのような進路であってもそれを特別にする可能性を秘めているのです。
 また些細な点ですが、高坂麗奈の家で演奏し「特別」を確認した後、お祭りの屋台という普通の過ごし方へ戻っていくという描写にも、「特別」という概念の二人の中での進化が見て取れます。もはや逆張りをしなくても二人は特別なのです。(何かのラジオか配信でキャストの方が似たようなことをおっしゃっていたような気がします。)「特別」と「普通」はもはや対立していないのです。

黒江真由が体現するもの

 脱構築をキーワードとして作品を見るのであれば、3期で主人公と対峙する黒江真由というキャラクターがどのような価値観・物語を引き受けている存在かを考えることが重要になります。
 黒江真由が体現するもの、それは主人公自身が発見するように過去の黄前久美子、そして黄前久美子にとっての田中あすかです。
 中学生の黄前久美子のように、オーディションによって傷ついてどこか冷めている。一方で黄前久美子以上に純粋に合奏のことを好いている。黒江真由は現在の黄前久美子の手前であり先でもある。だから黄前久美子の内面の葛藤は、黄前久美子自身と対比される黒江真由との対決によって顕在化します。黄前久美子は「現在の自分 vs 過去の自分」、「導かれてきた自分 vs 自分を導いたもの」という対立を通じて、高校三年間の自らの青春を脱構築していくのです。
 だから3期の序盤から中盤にかけて、黄前久美子は黒江真由に言い聞かせるように実力主義を突きつけます。「過去の自分の否定」の上に成り立つ現在の自分を、自分が過ごしている青春の「特別さ」を肯定しなければならないからです。この対立が終盤にかけて解きほぐされていくことがアニメ3期の見せ場だと言っていいでしょう。

 
アニメ3期では、田中あすかも「今でも一つも正しいと思ってない」、黒江真由も「それが正しいとは思わない」と言います。実力主義というある種の全体主義が自らのエゴであるという自己矛盾、実力主義という平等を掲げるからこそ実力主義を否定する人をも肯定しなければならないという矛盾に、黄前久美子は向き合っていくのです。
 義井沙里とのエピソードにあるように、黄前久美子は部長として「皆の色んな気持ちをまとめ」ていきます。それと同時に、自分の中にある対立をもまとめていきます。実力主義、全体主義は、個々人の思いを塗りつぶしていくわけではありません。あくまでまとめていくだけです。だからこそ、それは北宇治の音として結実していくのです。

さいごのソリストを巡って ~3つ目のオーディション~

 ここで3つ目と言ったのは、1年生、2年生に続く3つ目のオーディションを巡る物語、という意味です。府大会・関西大会・全国大会のオーディションはひっくるめて1つの物語として扱います。

 さいごのソリストを巡っては、当事者である黄前久美子と黒江真由以外のキャラクターの反応も重要だと感じています。
 少なくとも関西大会のオーディションでは、滝先生のもとで黒江真由がソリに選ばれました。この時の各キャラの反応を確認すると、実力主義で敗れてきた加藤葉月や釜屋つばめは黒江真由を、逆に実力者である川島緑輝や1年時のオーディションを経て実力主義を内面化した久石奏は黄前久美子を支持します。(特に釜屋つばめは、黒江真由本人に対して黄前久美子に託された実力主義の平等性を提示します。)最後のオーディションでも、これらのキャラはそのように手を挙げています(ちなみに義井沙里は1番に、剣崎梨々花は2番に手を挙げています)。これらの逆転は注目に値すると思います。それぞれのキャラの中で自らを肯定する論理と否定する論理の対決が行われているわけです。そして、このような対決が最も強く内面で展開されるのが高坂麗奈です。
 北宇治で実力主義を確立した高坂麗奈、しかし同時に誰よりも黄前久美子にソリを吹いて欲しいと願っているのもまた高坂麗奈です。高坂麗奈は関西大会の結果について滝先生に従うという形で黒江真由を支持します。しかし最後のオーディションでは自らの意思で、ユーフォニアムのソリストを選び取ることになるのです。

三人の敗者 〜黄前久美子自身の「青春の脱構築」〜

 結果として、高坂麗奈は音楽を裏切ることなく黒江真由をソリストに選びます。その意味は次節で考えますが、ここでは一度、少し違う視点で三年間を振り返ってみたいと思います。
 ユーフォには三人の敗者が存在します。正確に言えば自分の執着する相手に選ばれなかったキャラ、という意味です。田中あすかに拍手を送られない中世古香織、鎧塚みぞれにフルートが好きだと言ってもらえない傘木希美、高坂麗奈に選ばれない黄前久美子の三人です。(余談ですが筆者の好きなキャラは順に傘木希美、中世古香織、(田中あすか)、黄前久美子です……うわぁ!)。この三人はどのようにして前を向き、自らの未来を肯定したのでしょうか。
 中世古香織は自らの負けを認め、その一方でトランペットが好きだという気持ちを吉川優子により肯定されています。
 傘木希美は鎧塚みぞれにフルートを認めてもらうことができませんでしたが、その鎧塚みぞれを吹奏楽の世界に引き込んだ過去を思い出すことで前を向くことになります。(あえて強い表現を用いれば、自らを否定する存在により自らを肯定しています。)
 この二人は作品の中で肯定され、前を向くことに成功します。ただし自分の執着する相手からは、直接の肯定を受けることができませんでした。

 黄前久美子の場合はどうでしょうか。
 剣崎梨々花は黄前久美子のことを「才能ある子好きですよね」と言いますが、ユーフォという作品では実力や才能は努力の量だと徹底して描かれています。才能がある子が好きというのは、つまるところ努力への信頼です。では最後のオーディションでの敗北は努力不足を意味するのでしょうか? 努力は報われなかったのでしょうか? 音大を選ばないという選択は、音楽に対して不誠実だったでしょうか?
 既に述べたように黄前久美子にとって黒江真由との対決は、過去の自分や自分を導いてきたものとの対峙でもあります。また、(誓いのフィナーレに関連して述べた通り)黄前久美子は自分自身の努力を信じることができる段階に達しています。現在の自分自身は既に肯定されているのです。だからこそ黒江真由を全力で肯定すること(結果発表時もそうですが、これはオーディション直前には既に達成されています)、これによって黄前久美子は自分の過去も、これまでの努力の方向性をも全て肯定することになります。二項対立の両者を肯定することで脱構築を行っているのです。
 現在を肯定し、貫いてきた実力主義という「正しさ」をエゴの押し付けだという認識もひっくるめて肯定します。そして特別じゃなかった、黒江真由に重ねて苦手だと感じていた「過去の自分」も肯定することで、黄前久美子は奏者になる道を選ばないという未来を肯定することができます。高校三年間という青春の「特別」な時間を、自分の人生に返してやるのです。

 努力が報われる実力主義を肯定してこそ、黄前久美子は自分の努力を肯定することができます。それが自分を敗者にしようとも、自分の努力が本物だった証です。黄前久美子を選ばない高坂麗奈も、それを理解しています。だから高坂麗奈の選択は、黄前久美子の努力の否定ではありません。むしろ逆です。高坂麗奈も、黄前久美子と対立する存在を肯定することで黄前久美子自身を肯定したのです。『さいごのソリスト』はそんなアクロバティックな展開をやってのけているのです。
 そして黄前久美子は、これまでの努力がソリを吹くことのため以上に意味があることを理解しています。だから前を向くことができるのです。

夕暮れの宇治 ~大吉山展望台から~

大人になっていくこと ~青春の価値~

 前節では黄前久美子の敗北について述べましたが、ここでは最後に、作品としてもう少しメタな視点からも考えることにします。
 『響け!ユーフォニアム』は熱い青春部活ものです。高校生活の全てを部活に捧げるほどの青春でした。しかし部活動が、青春が全てではありません。この作品では明らかに、部活動を大人になっていく途中の段階に位置づけており、そのことを強調しています。将来の話は3期以前にも何度もありましたし、3期では特に主人公たちの進路選択としてストーリーに密接に絡んできます。京アニがユーフォを通して描いた「青春の価値」とはどういうものだったのか、改めて考えましょう。

 時系列が前後しますが、3期のオーディションで重要なことはその結果以上に黄前久美子と滝先生とのやり取りにあります。滝先生は再オーディションを決めたとき、部員の感情的な面も含めて黄前久美子が選ばれる可能性を充分考慮していたでしょう。しかし黄前久美子自身が覆面オーディションを提案することで、可能な限り平等で「正しい」と思われる方式を実現します。また、高坂麗奈も滝先生の決定に従うのではなく、自らソリを吹くユーフォニアム奏者を選び取ることになります。そして二人は、努力が報われる平等な世界としての実力主義を貫きます。
 滝先生が始めた「正しさ」を真に自分たちのものにしたのです。
 黄前久美子は、高坂麗奈は、北宇治高校吹奏楽部は滝先生が重んじてきた自主性を本当の意味で獲得したのです。

 これこそが、黄前久美子たちが三年間かけて、努力を重ねて手に入れたものです。

 青春の「価値」は青春という時期の中で完結するものではない、その後の人生にわたるまでの大きな意味を持つものです。
 
はじめの内は導き手が必要です。わけも分からず努力してもいい。そうしているとやがて、本当に自分自身を導いていけるようになります。部活動が育てたのは、石が積み上げられた賽の河原という全体ではなく、一人ひとりの人間です。努力はきっと、自分の人生の中で報われるはずです。
 だからこそ京都アニメーションが描く『響け!ユーフォニアム』において、黄前久美子は高坂麗奈自身の選択によって敗北しなければならなかったのです。三年間かけて獲得した自主性を讃え、自分で導く自分の人生を讃え、努力が青春という時期の中で報われるよりも大きな価値を持つことを提示するために。


 大吉山で黄前久美子は「この気持ちも頑張って誇りにしたい」「どんなに離れてても麗奈と肩を並べられるように」と言います。ここでは「特別」というものが何なのか、二人が誓いあった青春の終着点が描かれます(大吉山は「特別になりたい山」でしたね)。
 既に確認したように、オーディション前の会話で黄前久美子は「麗奈は特別だから」と言います。「私たち」よりも、奏者として羽ばたいていく高坂麗奈を特別だと強調しています。黄前久美子は奏者を目指しません。しかしそれは特別じゃないということを意味しない、それを最後の大吉山のシーンでは発見しています。すなわち、今後も努力して「この気持ちを誇りにする」こと、この青春に自分の人生が報いること、それによって「特別」な高坂麗奈と対等に肩を並べることができる、と述べられています。「青春の努力が人生の中で報われること」と逆説的ですが、「今後の人生をかけて青春の時間に報いること」が言われているわけです。ここに最後の脱構築があります。
 人生を輝かせてこそ、そこに至ったプロセス、部活動、つまり今しかない特別な青春が真に輝くことになるのです。
 「これまでの青春」と「これからの未来」という二項対立構造から、青春と未来が互いに支え合うような、「つながる」人生へ。こうして「特別と普通」「青春期と人生」といった対立の脱構築が達成され、「青春の価値」へと到達しました。

おわりに ~本当の感想文~

 感想文です。
 あまり上手くまとめられませんでしたが、書き進めていく内に自分の中でも新たな発見が多々ありました。ここまでの記事は比較的冷静に書けたのではないかと思います。(読み返してみたら黄前久美子は敗れなければならなかったとか書いてあってひっくり返った、久美子と麗奈にソリ吹いて欲しかったよ……。)「脱構築」というキーワードを前提に書いたので無理な深読みやこじつけもあるかもしれません。お気づきの点がありましたらぜひ教えてください。

 『響け!ユーフォニアム』は間違いなく青春部活アニメの金字塔だと思います。普遍的な事実として、ある単一目標を志す集団の中においては様々な立場それぞれにどうしようもない痛みが伴います。この作品では多くのパターンが網羅されていますが、その痛み・葛藤に対峙していく登場人物たちはあくまでも美しく描かれます。だからこそ、痛みを単なるどうしようもない事実として突き放すと同時に、それを肯定もしてくれるのです。
 だから、『響け!ユーフォニアム』を見ること自体が、私にとってはある種の挫折でした。だって自分がここまで頑張れたなんて、これほど本気の青春を送れてきたなんて中々思えないじゃないですか。既に見た過去作をある程度消化できたかなって思ったところで新作を見ると、ユーフォという作品は自分より更に先を行っているのです。(三年生編が完結したので、そんな視聴体験ももう無いのかもしれませんが。一年生から三年生までアニメで見られたこと、本当に幸せです。3期総集編映画も待ってます。)
 ユーフォを見て悔しくなって、ひとしきり落ち込んで、でもしばらく経って、かつて自分にもそんな努力が多少なりともあったことを思い出します。そうしてまた思うのです、「頑張ろう」って。
 だから、ありがとうございました。

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