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何事にも余裕を持つことの大切さ。

忙しい時間を過ごしていると、いつも思うのが「余裕を持つことの大切さ」である。時間的な余裕、精神的な余裕、生活的な余裕など、心穏やかに生きるには何事においても余裕を持つことが大切だと実感する。

人は余裕がある時とない時では、物事への対処の仕方が変わる。たとえば、仕事をたくさん抱えて精神的に余裕がないときは、周りにいる同僚や後輩に強く当たってしまうかもしれない。

いつもやることに追われている人は、時間的な余裕がないため、仕事以外のことへの興味が薄れてしまうかもしれない。生活的な余裕も同じく、経済面で切羽詰まっていれば、本当なら絶対にやらないことにまで手を出してしまうかもしれない。

これらはすべて「余裕のなさ」から生まれるものであり、余裕さえあればうまく対処しながらそれなりにうまく生きていくことができる。でも忙しい現代社会で生きる私たちには、その余裕を持つことが何よりも難しい。

余裕はどこにある?

仕事に追われたくないと思えば思うほど、仕事のことを考えて精神的な余裕をなくす。やることに追われずのんびり時間を過ごしたいと思えば思うほど、時間に追われながら過ごすことになる。経済面も同じだ。たくさんお金を稼いで生活に余裕を持たそうとすればするほど、生活自体に余裕がなくなっていく。

余裕とは、ある意味あまのじゃくなのかもしれない。どこか幸せにも似ている。求めれば求めるほど遠ざかり、いつまで経っても手に入れることができない。まるで昇進を焦らされているサラリーマンのようだ。

余裕が求めるほど遠ざかっていくのであれば、どうすれば余裕のある生活を送れるのだろう。逆説的だが、余裕を求めないようにするのが一番手っ取り早い。余裕は求めて手にするものではなく、いつの間にか手にしているものなのだ。あるいは、行動の結果として余裕ある状態になるのではなく、行動の過程の中にこそ余裕はあるのかもしれない。

余裕を求めて、余裕がなくなる

そもそも「余裕を持とう」と思うこと自体「余裕がない状態」であり、余裕を求めて右往左往するほど逃げ水のように余裕は遠ざかっていく。その先に待っているのは、心を疲弊しながら消耗して生きる哀れな自分の姿である。

おもしろいことに、世の中の多くのものは、私たちが求めれば求めるほど遠ざかっていくようにできているのだ。欲求や欲望を満たそうと日々足掻いてる人たちを見れば、彼らがいかに不満を覚えながら生きているかがわかるだろう。欲求や欲望は観念的なものであるがゆえに、一時的に満たしても満足はない。追えば追うほど、「もっと多く」を求めて永遠に追い続けることになる。

余裕もこれと同じだ。「もっと余裕を持とう」「余裕さえあれば」と思えば思うほど、私たちには余裕がなくなり、いつまで経っても心穏やかに生きることができない。穏やかに生きるには余裕が必要だが、その余裕を求めれば穏やかになれないのはなんとも皮肉な話である。

余裕は気づくもの

よく、自然体でいることを心がけている人もいるが、傍からみると「自然体でいることを心がけている」こと自体が「不自然」に見える。この逆説はいたるところに存在する。自由を求めて不自由に、幸せを求めて不幸に、自然を求めて不自然に。そして、余裕を求めて切迫した状態へ。

何かを求めるというのは、欲求の裏返しである。欲求がなければ何かを欲することはない。ゆえに、欲求を持たなければ、余裕を持とうと切羽詰まった状態になることもない。そしてその状態こそ「余裕がある状態」なのだ。

つまり、余裕とはただ単に切羽詰まっていない状態。何も求めず、普通に生きている状態がもっとも余裕のある瞬間なのである。悲しいかな。私たちは余裕を求めて右往左往するが、実は最初から欲しいものは手にしたのだ。ただ気づいていなかっただけで。

自分の「余裕」を見つける

この点においても、余裕と幸せは似たようなものだといえる。すなわち、幸せも「なるもの」ではなく「気づくもの」だからだ。ただ身近な幸せに気づきさえすれば、私たちは今すぐにでも幸せになることができる。

すでに手にしてるものを求めて右往左往することほど愚かな姿はない。メガネをかけているのにメガネを探しているような状態だ。きっとそんな人を見かけたらあなたは大笑いするだろう。でも、そんなことを私たちは普段大真面目にやっているのだ。

余裕も幸せも自由も何もかも、私たちは今この瞬間に手に入れている。必要なのはそれに気づくことであり、何も高いお金を払ってスピリチュアル教室に通う必要はない。

自分と向き合う時間を持とう。考えることにお金は1円もかからないのだから。

おしまい。

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