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「書く」という営みについて私が語ること。

「書く」という行為は、私にとって「自己表現」と同じ意味である。書くことではじめて自分自身がわかり、頭の中にある断片的なアイデアの一つひとつが結びつくことで、はじめて「自分」という一人の人間を表現することができる。

思えば、私は昔から目立ちたがり屋だった。記憶に残っている限り、小学生の頃はとにかく明るくてうるさくて元気がいい子どもだった。でもそれは悪目立ちのようなものであって、とにかくみんなに注目してもらいたかっただけな気がしないでもない。

そんな子ども時代を過ごしていると、まぁ大人になっても目立ちたがり屋の癖は抜けない。でもさすがに悪目立ちとかはしなくなり、かなり落ち着いたとは思う。それでも、会社員時代には意味なく騒いでいたりもしたけれど。そして目立ちたがり屋の癖が抜け切れてない部分は、大人になってから「自意識過剰」という性格で表に出てきた。

自意識過剰は、どうやら「ナルシスト」と同じ意味らしい。なるほど、たしかに言われてみれば自分はナルシストかもしれない。外見的にはまったく自信はないけれど、内面的には自分のこともある程度は好きだ。それに自分のことが嫌いなら、わざわざ自己表現なんてしたいと思わないだろう。人はみんなどこかしらナルシストな部分があるものである。

もちろん、ナルシストも行き過ぎればちょっとうざい奴になる。外を歩いていて、車のウィンドウガラスで自分の顔や髪型ばかり気にしていれば、周りの人からはナルシストと思われるだろう。内面的にも、自分のことを過大評価しすぎていつも自信たっぷりだと、やっぱり周りからはウザがられたりやっかみを言われたりもする。

でも生きていく上では、多少の自信が必要だ。自信がないと自分の殻に閉じこもって塞ぎ込んでしまうだろうし、何より生きていて楽しくない。ナルシストは自意識過剰な状態ではあるけど、それと自信はまったくもって別のものだ。

自己表現方法の探求

話を戻そう。私は内面的なナルシストで、多少自意識過剰かもしれない。そんな私が大人になって目立つには「自己表現」が必要だった。自分で何かものをつくる、そのものを通じて自分という人間を表現する。それに対して、世間からの評価や周りの人たちからの反応を受け取る。学校や会社で目立つのとはわけが違うかもしれないけれど、「大勢の人に見られる」という目立ちたがり屋の欲求を満たすには十分である。

自己表現の方法は世の中にたくさんある。たとえば、作曲をしたり楽器を演奏したり、写真を撮ったり何かスポーツをしたり、ブログを書いたり物を作ったりなど、「自分」という人間を表現する方法は数え切れないほどある。この点、現代はほんとにいい時代だと思う。

私も「文章を書く」という自己表現にたどり着く前には、本当にたくさんのことをしてきた。DAWという何万円もする作曲ソフトを買い、キーボードやオーディオインターフェースといった機材を買い集め、作曲に夢中になっていた時期もある。まぁ、1曲もマトモに完成したことはなかったが。

楽器にしても、Morris(モーリス)というちょっといいアコースティックギターを買って、毎日何時間も練習していた時期もある。こちらはそれなりにコードも弾けるようになり、有名な曲を演奏できるぐらいには上達したけど、結局は自己表現の域までは達せずに辞めてしまった。

ほかにも、写真を撮ることにのめり込んでた時期もある。これまたNikonのちょっといい一眼レフカメラとレンズを買い、1年ぐらい毎日写真を撮りまくっていた。でも毎日撮っていると、全部同じ写真に見えてきて飽きてしまった。そこで自分なりに工夫して、自分にしか撮れない写真ってのを撮るのが写真家なんだろうけど、そこまでの熱意も才能もなかったようだ。

こう考えてみるだけでも、結構色んなことに手を出して、色々と身銭を切って体験してきたわけだが、最終的に行き着いたのは「文章を書く」という自己表現である。自分の思いや考えを文章にするためには、お金は一切かからない。今ではスマホ1台持っているだけで、親指をスライドさせれば誰でも文章で自己表現ができる。いや、ほんとにいい時代になったものだ。

文章を書くのが好きになるまで

文章を書くことに関して、覚えている限りの一番古い記憶は、小学生の国語の授業で「最近の驚いた出来事を作文に書きましょう」だ。そこで私は1000円札を拾ったことを書いた。というのも、ちょうどその前日に犬の散歩をしていて、1000円札を拾ったのだ。それを交番に届けたら「ちゃんと届けてくれたから、そのままあげるよ」とお巡りさんに言われてウキウキになって帰った、みたいなことを小学生の頭でウンウン考えながら一生懸命作文に書いた。

そしたらなぜだかわからないけれど、先生がその作文を褒めてくれて、恥ずかしがりながらも嬉しいと感じたことを今でも覚えている。今思えば、「文章を書く」という行為を楽しいと感じたのは、これが最初だった。

それからは意図的に文章を書くことはなかったけど、読書感想文とか夏休みの思い出といった作文を書く宿題は好きだった。400文字の原稿用紙1枚が狭く感じ、いつも書きたいことのほうが多い状態だったのを覚えている。でも、このときはまだ「自分は文章を書くのが好き」とは認識していない。

そんなこんなで気づいたら大人になっていたわけだが、ハッキリと「文章を書くのが好き」と認識したのは20代前半の頃だったと思う。当時はmixiというSNSが流行っていて(今の若い世代は知らないかも)、そこで毎日のように日記を書いていた。今見てみると、お世辞にも上手いとは言えず、全然自分の考えを言語化できていない。それでも当時は書いているのが楽しかった。

それからもちょくちょくSNSで日記を書いたり、無料ブログを開設して何か思いついたことを書いたりしているうちに、フリーで活動できる「ライター」という仕事があることを知り、なんやかんやあって今のようなフリーライターの道に入ることになった。

自分を肯定するために書く

私の根底には「文章を書くのが好き」という気持ちが一貫してある。でも最近気づいたのは、一番書いていて楽しいのは「自分の好きなことを、好きなように書いているとき」た。昨日や今日感じたことや考えたことを頭の中で整理し、それを言語化して適切な言葉として文章に書き綴る。この作業がたまらなく好きだ。

たいていは散歩しているときやボーッとしているとき、お風呂に入っているときや音楽を聴いているときに、ふと頭の中に何かしらのキーワードが浮かんでくる。そのキーワードを頭の中でどんどん膨らませ、ぼんやりと書きたいことや伝えたいことが見えてきたら、実際に書き始める。

たとえばこのエッセイであれば、「書く」というキーワードが頭に浮かび、「書くということについて何を書こう」と考え、ある程度方向性が決まったらとりあえず書き始めるという流れだ。あまり構成とか考えずに、とにかくテンポとリズムを重視して、書きたいことを書きまくるように意識している。

あまり時間をかけて書こうとすると、頭の中にあるアイデアや考えがどっかに行ってしまうし、伝えたい思いは情熱がほとばしっている間に言語化したほうが心もこもりやすい。文章を書くときは勢いが大事で、特にエッセイなどは書きながら自分の深層心理にアクセスしながら、どんどんのめり込んで書いたほうが圧倒的に書きやすい。

そんな風に書いた文章が他人に受け入れられることもあれば、まったく受け入れられないこともある。正直それはどっちでも構わない。自己表現はただ自分を表現することであり、そこに他人の評価は関係ない。商品としてものを書いているのであれば別だが、自己を表現するときに他人や世間の目なんて気にしてはならない。

日々生きていく中で体験する出来事や経験したこと、何かを見て思うことや感じること、これまでの人生で考えたことや得てきたものをしっかりと言語化し、言葉として落とし込んでいく。これは最高の自己表現であり、自分で自分を肯定するためにも大切なことだと思っている。

語りえないものを語る物書き

自分の頭の中にある記憶やアイデアは、すべて自分自身の唯一無二のものだし、これを読んでいる人の頭の中にあることも、一人ひとりが持っている唯一無二のものだ。体験してきたことや経験してきたことは、一人ひとり違う。外見が似ている人はたくさんいるけれど、頭の中までそっくりな人は中々いない。というかゼロだ。だからこそ、頭の中にあるものを言語化することは、「自分」という一人の人間を表現することになる。

頭の中をうまく言語化するのは、とても難しい。うまく言い表せられないこともたくさんある。言葉にならない経験を無理して言語化すると、その経験のディテールが抜け落ちてしまい、うまく伝わらないこともよくある。言葉は人に何かを伝えるためのものだけど、思考の一切合切を言語化できるわけではないのだ。

言語哲学者であるウィトゲンシュタインは、「言語の限界は、思考の限界」と述べた。つまり、哲学的な問題の多くは、言語と思考の限界の先にあるものとし、「語りえないことについては、人は沈黙せねばならない」と有名な言葉を残している。

たしかに言語が思考から生まれるものだとすれば、言語と思考の限界はピッタリ一致していることになる。考えられないものは言語化することはできない。でも私のようなしがない物書きは、「語りえないことを」あえて語ること」で自己表現が達成される。そして「語りえないもの」の中にこそ、何か人生において大切なものがあるんじゃないかと感じている。

ものを書き続ける原動力

「書く」ことは自己表現と言ったが、私の場合は「書く」という行為を通して人生と向き合っているのかもしれない。言語化の元となるものは私の人生の中での出来事に根ざしているし、体験や経験、感受性といったものがなければ、とてもじゃないがエッセイなんて書けない。エッセイを書く源泉は、紛れもない私自身のこれまでの人生体験だ。

「書く」という営みは、私にとってかけがえのないものである。「生きるとはなにか?」と問われれば、「生きるとは、書くこと」と答える。私の中では、生きることと書くことは同義なのだ。もちろん、まだまだ拙い文章で、表現力も文章力も、感性や情緒の言語化能力も全然足りていない。物書きとしても、とてもじゃないが成熟しているとは言えない。

でも「書く」という行為を通じ、自分という一人の人間を表現し、言語化することで人生と向き合うのは、私にとっては何にも変えられない時間だ。それは音楽を聞くよりも、写真を撮るよりも、楽器を演奏するよりも、スポーツをするよりも、旅行に行くよりも、私に充足感と達成感をもたらしてくれる。

「書く」こと自体に本質的な意味はない。意味はいつだって自分で見つけるものである。自分がとる行動に納得できる意味づけができれば、それだけで行為そのものが色づきはじめる。人生には、そうした色づいたものが何か1つでもあるだけで、幸せを感じられるものだ。

それが今のところ、私がものを書き続ける原動力となっている。


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