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自我が強いのは悪いことなのか?

自我にとらわれずに生きられたら、どれだけ楽なのだろう。私は基本的に自我が強いタイプだ。それに関しては以下の記事で述べたとおりである。

自我が強い状態だと、なにをするにしても、なにを見るにしても、なにを聞くにしても、自分目線でしか物事を認識できない。人は誰しも自己というサングラスを通して物事を認識しているものだが、強すぎる自我は、自分以外の第三者目線で物事を認識できなくなる。

よく「客観性が大事」と言われるが、客観性の本質は自我の没落である。自我を限りなく薄めることで、物事の認識の幅を広げ、正面から見るのではなく遥か上から客観的に見ることができる。主観的な目線では気づけなかったものでも、客観的に見てはじめて気づくものがある。自我は真実から目を逸らさせるものでもあるのだ。

自己満足=自分を大切にする生き方

現代は昔と比べて「自分を大切にする生き方」が人気となっている。自分のことを認め、許し、愛すことで、人生を最大限楽しめるというわけだ。結局のところ、人生は自己満足的なものでしかなく、いかに充実と満足を感じながら生きられるかが大事なのだと思われている。

私も基本的には人生は自己満足でしかないと思っていた。でも最近少し考えが変わってきた。自己満足というのは「自己」と「自己以外」という立ち位置に立ってはじめて出現する概念だ。自己を強く認識しているからこそ、自己満足にこだわる生き方が生まれる。

しかし、私はできるだけ依存や執着をせずに生きていきたいと思っている。人やモノにはもちろんのこと、自分自身にも執着せずに生きていきたい。自分に執着するというのは、自我が強い状態にほかならない。常に自分目線で物事を解釈し、自分目線でしか良し悪しを判断できない。

自我は自分そのもの

他人にとって正しいことでも、自分にとって正しくなければそれを頭ごなしに否定してしまう。とにかく自分を大切にし、いかに自分自身が満足し、充実した日々を送れるかだけを考える。自我の強さは、自分自身への執着の度合いと比例している。自我が弱ければ自分に執着しすぎることはない。

自我があるからこそ、人は他人を否定してしまう。「自分」と「他人」という区別が人間関係のトラブルの原因だ。同じ人間であっても、自我があることで優劣が生まれ、自分を賞賛したり他人を見下したりしてしまう。「人はみな平等」とはよく言うが、実際に平等だと思っている人はどれだけいるだろうか?誰もが無意識のうちに不平等を自分の中で作り上げている。

しかし、自我を完全になくしてしまうと、それは自分が自分ではなくなってしまうことにもなる。自我は自分そのものだ。自我があるからこそ、私たちは好き嫌いを持ち、得意不得意があり、日常的な行動を選択し決断している。わかりやすくいえば、自我=魂である。魂が抜けた自分は自分ではない。つまり、人間の核をなすのが自我なのである。

大事なのは自我と自己中のバランスを調整することだ。自我が強すぎれば自己中になってしまう。逆に自我が弱ければ意志もなにもない周りに流されるだけの棒人間になってしまう。きっと、自我を持ちつつ、ほどよく自己中に生きるのがもっとも気楽な生き方なのだと思う。

自我を持ちつつ素直に生きる

よく「自分のためだけに生きていては人生つまらない」と聞くが、それは核心ではない。「自分のためだけに生きる」というのは、決して自己中心的に生きるという意味ではない。というのも、自分のために生きるとは、「自分の素直な気持ちに従って生きる」ということであり、好きなものに好きといい、嫌いなものには関わらない。判断は他人ではなく自分の意志でおこなう生き方こそ、「自分のために生きる」ということなのだ。

自分のために生きられない人は、ありのままの自分を受け入れられない人だ。自分の気持ちよりも他人の目を気にし、自分の好きなように生きることに罪悪感を感じてしまう。自我が極端に弱い状態である。これでは人生はつまらないものにしかならない。気にするべきは他人ではなく、自分の意志である。

日本は我慢することや自己犠牲的な精神が美徳だと賛美される社会だが、本当に充実した人生を送りたいのであれば、常識や当たり前には逆らわなければならない。大衆は間違った考えでも多数派になればそれを正解だと思い込んでしまう。悲しいことに、現代で「普通」に生きていれば生きづらさを感じるのがデフォルトとなっている。変えるべきは自分の考えであり、「普通」という概念だ。

人は生命力が弱くなれば精神的にも脆くなるという。生命力を支えているのは紛れもなく自我だ。後で振り返って後悔しないためにも、常に自分自身と向き合い、素直で正直な気持ちに従って生きていきたいものである。

おしまい。

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