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存在意義(レゾンデートル)がない人生ほど味気ないものはない。

自分なりの存在意義(レゾンデートル)を持つことはとても大切なことだと思う。存在意義は生きる意味とも言い換えられるが、自分なりの存在意義がないと生きていてもどこか空虚で楽しくない。

どんなことに存在意義を感じるかどうかは人それぞれである。仕事に自分の存在意義を感じる人もいれば、家族や友達、恋人といった人間関係に自分の存在意義を感じる人もいる。ほかにも、ゲームや音楽、筋トレやお酒などの趣味や娯楽に対して存在意義を感じる人もいる。

私は仕事に存在意義を感じるタイプではなく、そこまで必死に働くような人間でもない。お金よりも自由な時間のほうが大事だと思っているし、最低限の衣食住を確保できるだけのお金があれば、無理に働いてお金を稼ごうとは思わないタイプの人間だ。

仕事では1年の間に真面目に働く期間と全然働かない期間を行ったり来たりしている。仕事のモチベーションがそこそこ高い時期は遊んだりすることが少なく、引きこもって読書と仕事と散歩を繰り返す毎日を淡々と送っている。

一方、仕事のモチベーションが低い時期はほとんど何もせず、生活に必要な最低限の作業をして生活費を確保し、そのほかの時間はダラダラしたりプラプラしながら過ごしている。完全なFIREではないが、FIRE後の生活を送っている感覚である。

でも、仕事や時間にも追われることなく、不安や恐怖とも縁が切れると、自分は何のために生きているのだろうか、とつい考えてしまう。周りの人に相談すると「贅沢な悩みだ」「ないものねだり」と言われるが、自由な生活というのも案外楽ではないのだ。

よくSNSなどでも「FIREはやることがなくて退屈で老化まっしぐら」ということを目にする。FIREすると人間関係は希薄になり、お金には困っていないがやることがなく、毎日読書と散歩と筋トレを繰り返し、YouTubeや映画を見て一日が終わる。ふーむ、まさしく私のような生活である。

そもそもFIREを達成する人たちは無駄な消費や浪費に興味がない人が多い。飲み会や贅沢な食事に興味がなく、夜の街で遊んだりギャンブルをしたりもせず、タバコやお酒も一切やらない。そうした消費や浪費にかかるお金を投資に回すことで、FIREを達成している人が多い。

そうした倹約意識のようなものが深く根付いてしまった後にFIREし、「さぁ、自由に生きていいんだよ」みたいな状況になると、悲しいことに世の中のたいていのことに興味が湧かなくなっている。

そもそも世の中は無駄な娯楽と消費と浪費で成り立っているのであり、それらをすべて無駄と排除すると人生がつまらないものになってしまう。「FIREはそんなに理想的なものじゃない」と言われているが、実際にFIREのような生活をしてみるとまざまざと実感する。「FIREなんてつまらない生活だ」と。

人によってはFIREして楽しめる人もいると思う。毎日好きなだけマンガを読み、映画を見てゲームをして、夜にはお酒を飲みに出かけて朝方に眠りお昼頃に起きる。そうした生活がしたいと夢見ている会社員もたくさんいるだろう。

何でもやってみなければわからないものだが、私にとってはFIREは刺激のないつまらない毎日の連続でしかない。たしかにめんどうなストレスや人間関係はない。好きなときに好きなことをできる自由がある。でも自由は不自由の中でこそ輝くものであって、完全な自由の中で自分が自由だと実感することはとても難しい。

毎日読書や散歩、筋トレやサウナみたいな生活を送っていても幸福度はそんなに高くない。それよりも、自分が求められている場所で一生懸命はたらき、週末を迎えるほうが格段に幸福度は高い。同じ週末でも価値が違うのだ。

きっとFIREを楽しめる人は、自分にとっての存在意義や生きがいというものをを何かしら持っているのだろう。自由は不自由の中で輝き、存在意義は自由の中で輝くものなのだ。存在意義のない自由な生活には、孤独で空虚な毎日があなたを待っている。

これはFIREだけに言えることではなく、多くの人がいつか必ず迎える老後の生活には言えることだ。仕事を退職し、年金と貯金で生活するようになり、「さぁ、あなたは自由です!何でも好きなことができますよ!」となったとき、あなたは一体なにをするだろうか。

映画やアニメ、ゲームや読書、散歩や旅行といった消費的な娯楽はすぐに飽きる。これらの娯楽は不自由の中で輝く娯楽であり、自由な生活の中では輝きを失ってしまう。

ではどうすればいいのか。生産的娯楽を見つけるのだ。生産的娯楽とは、映画やアニメを見るといった受動的かつ消費的な娯楽ではなく、自分で何かを作る、生み出すタイプの娯楽である。

こうした生産的娯楽には飽きるという感覚がない。消費は飽きるが、生産は新鮮なので毎日新しい感覚を与えてくれる。たとえば作曲したり詩を書いたり、写真を撮ったり楽器を弾いたり、物書きやマンガを描いたり、動画を撮ったりなど、これらは生産的娯楽の類である。

老後までにやるべきことは貯金ではなく、存在意義を見つけることだ。たとえお金があっても存在意義を持たない老人は生きる意味を見失い、つまらない毎日の中でただ死を待つのみだ。

これはFIREを目指している人にも言える。FIREしたいと思い、せっせと貯金や投資をしたりするのはいいが、肝心の存在意義をおろそかにしていると、いざFIREしても孤独で空虚なつまらない毎日が待っている。

自分にとっての存在意義は何なのか。人生とはそれを見つける旅であり、自由を願うのであれば存在意義をおろそかにしてはいけない。消費や浪費を思いっきり楽しむのも悪くはないが、自分の手で何かを生み出す喜びを見つけた人は、本当の意味で自由で幸せなのだろうと思う。

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