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子どもの頃からずっと大切にしている「自由」という言葉の意味。

小さい頃からよく「自由」について深く考えるのがクセで、それは今も変わらない。とはいっても、ツイッターなどのSNSによくいる「20代でお金をたくさん稼いで自由になろう!」とか「自由になるための4つの方法!」とかいう胡散臭い謳い文句やビジネス臭がプンプンする自由の概念とはまったく違う。

これは別にほかの人の自由の概念や考え方、生き方を否定しているわけではなく、お金を手にして自由になるという生き方に自分が違和感を感じているだけだ。自由にお金が必要だと考えるのは、青空の下を思いっきり走って自由を感じていた子ども時代、将来の不安など抱いていなかったあの頃と比べて、成熟することで頭と心が歪んでしまったのではないかと思ってしまうのだ。

あくまで個人的な見解であるが、私の中にある自由の定義はお金や仕事などの経済的な自由とは関係なく、考え方や生き方、ライフスタイルといった普段の生活の中での「心の自由」を意味している。

自由を求めると不自由になる

たとえば、ただ漠然と「自由人」と聞くと「毎日遊んでいる人」「経済的な自由がある人」といったイメージが浮かんでくるだろう。だが、自分が思っているのはそういうことではなく、考え方や生き方、そして心が何にも束縛されていない状態で生きる人こそ、真の自由人であると思っている。

たとえどんなにお金を持っていても、どんなに経済的な自由があっても、どんなに遊び回る毎日を過ごしていても、心が自由でなければそれは本当の自由とは違うんじゃないか?と子どもの頃からずっと考え続けている。そして大人になった今でも、それは真実だと疑っていない。

「会社に勤めて仕事をしているから自由ではない」「仕事を辞めれば自由になれる」と語る人は多いが、まさにそれが「心が自由ではない」の典型的な状態であるあ。「会社に勤めて仕事をしているから自由ではない」という考え方が不自由の源泉であり、自分で自分を不自由にしているのだ。不思議なもので、社会の中では自由を求めると逆に不自由になるという矛盾が存在しているようだ。

きっと、「仕事を辞めれば自由になれる」と考えるような人たちが、SNSにいる「成功者」や「インフルエンサー」という肩書きを持つ人たちに、「会社をやめて自由になろう!」「誰でも副業で月収ウン十万円!」とかいう胡散臭いビジネスにひっかかったりするのだろう。自由をお金の量で語るとロクなことにはならない。

心が束縛されていないか?

私は心が何にも束縛されていない状態であるなら、誰もが自由に生きられると信じている。嫌なことをお金のために強制してやらされているような状態、お金があれば決してやらないようなことを日常的にやっているような状態、そうした生き方は私の自由の概念からは程遠い。

逆に言えば、たとえ忙しく仕事をしていても、その仕事が自分の好きなことでやりたいからやっているような状態であれば、自由な生き方をしていると言える。お金があってもやり続けるようなこと、暇なときについやってしまうようなこと、そうしたものが仕事であればたとえ忙しくても自由は感じられる。心が束縛されていないからだ。

心が自由になれば、日常的なことに対しても自由を感じられるようになる。見栄を張ったりプライドを振りかざしたりせず、純粋な心の目で他人と社会を俯瞰することができ、自分に正直に、他人に素直になることができる。束縛は自分を不自由にするだけでなく、自己欺瞞を引き起こし、自分らしさというものを失わせてしまう。

自由は身近にある

「意味のないことなんて何ひとつない」なんて使い古された言葉を使うのもなんだが、物事に意味を与えるのは自分自身であり、それを学びとして経験に変えるのも自分でしかない。そして物事に前向きな意味を与えるためにも、心の自由さが必要になるのだ。

自由な状態というのは、誰でも考え方さえ変えれば明日からでも実感できるものだ。学校教育でたっぷり洗脳された思考回路から自分を解き放ち、創造力と行動力に溢れた自由人になることで、多くの人が望む「最大限楽しむ人生」を歩むことができる。自由は人生の土台となるものである。

フランスの哲学者であるサルトルは「現代人は自由の刑に処されている」と述べ、自由を求めて不自由になっている現代人を揶揄した。その本質は、現代という時代性は自由を求めることがイデオロギーとして多くの人に蔓延しており、自由になることこそ人生の到達点であると生まれながらにして強制されているような状態のことを意味している。

お金で時間と買い、それで自由を手にすることが悪いわけではないが、それでは一生お金を稼ぎ続ける必要があり、自由がお金に支配されている状態からは抜け出すことはできない。青空の下で昼寝をして感じる自由にはお金はいらない。軽いランニングを汗を流し、体が自由に動くことに喜びを感じるのにもお金は必要ない。自由は誰の人生にも身近なところにあるものなのだ。

自由は私の人生そのもの

ここで書き綴っていることはすべて私の個人的な見解でしかないので、「自由にはお金が必要だ」と考える人がいても否定はしない。各自各々、自分が求める自由を追い求めて生きればそれでいい。ただ私の自由の基準点が「心」にあるだけの話であり、心はお金では買えないというのが私の信念のひとつでもあるだけだ。

この先どんな仕事をしようが、どんな状況になろうが、どんな生き方を強いられようが、私は心の自由だけは手放さないだろう。子どもの頃に青空の下を思いっきり走って感じたあの自由の感触、それが私の自由の原点であり、生きがいであり、私の人生そのものである。


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