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ハッピー・プライド、と言っていられないかもしれないけれど

 こんにちは、李琴峰です。
 6月、プライド月間も残すところ数日ですね。

 プライド月間――それは私たちクィア・コミュニティの歴史を記念し、存在を祝福するために祝祭です。抑圧と迫害を耐え抜き、暴動から始まり、疫病の時代を乗り越え、追悼に追悼を重ねてきたその先に、ようやく手に入れた、色とりどりの「祝福」です。
 この祝福の月間に、「ハッピー・プライド」を合言葉にすれば、私たちは世界中のクィアの人たちと連帯できる――少なくともそのような想像に浸ることができるのです。

 しかし、日本に住んでいるあなたはこう思うかもしれません。何がハッピー・プライドだ、と。
 同性婚ひとつ認められていないこの状況で何がハッピー・プライドだ
 LGBT理解増進法が成立して1年経ったのにいまだ基本計画の影も形もないし、政府は何のやる気もない。何がハッピー・プライドだ
 深刻な人権侵害により最高裁で違憲だと判断された性同一性障害特例法は改正も議論もされないまま放置され、かわりに保守派議連がトランスジェンダー排除を念頭に置いた法案を提出した何がハッピー・プライドだ
 ネット上でヘイトが溢れ、それに嬉々として乗っかる政治家や保守論客やインフルエンサーがわんさかいて、エセ科学のヘイト本が売れに売れたこの状況において、一体全体、何がハッピー・プライドなんだ、と、

 その気持ちは、よく分かります。私もプライド月間直前に、LGBT理解増進法について国会で発言したことがある弁護士の滝本太郎から盛大なデマ・名誉毀損・セクハラ被害を受けました
 吐き気がし、不眠に苛まれ、メンタルも体調も崩しました。これほど深刻な被害を受けている状況は、とてもじゃないけどハッピー・プライドなんて言ってられない、と思いました。

 しかし、それでも、それでも。
 私はあえて「ハッピー・プライド」を言います。言い続けます。

 私たちの存在は、そもそも人類が数千年の間で信じて疑わなかった、3つの神話・虚構に喧嘩を吹っかけているのです。
 人間は必ず異性に欲情するという、異性愛規範の神話。人間は生まれてから死ぬまで決して性別が変わることがないという、シスジェンダー規範の神話。そして、男女が子どもを生み育てるために婚姻制度があるのだという、伝統的家族観の神話。
 この3つの神話を社会が強固に信仰しているからこそ、私たちは受難してきたし、しているのです。

 数千年の間、私たちは自分自身であるという理由だけで、国家や警察、医療界、共同体による暴力に晒されてきました。クビ、弾圧、投獄、死刑、殺人、電気ショック、転向療法、まさしく血まみれの歴史です。
 生まれる時代が違えば、私たちはナチスの強制収容所で死んでいたかもしれないし、「ストーンウォール・イン」で殴打され逮捕されたかもしれません。
 いや、時代が同じでも、生まれた場所さえ違えば、私たちは国を追われたり、死刑になったりしたのかもしれません。

 これほどまでに生々しく、血まみれの歴史を、しかし頑として認めず、それを繰り返そうとする愚かしい人々がこんなにもたくさんいることを知ると、戦慄を覚えずにいられないのも道理です。

 しかし、どうか忘れないでください。
 どんなに暗い時代でも、必ず強権や弾圧に立ち向かった人々がいたということを。私たちの生は、先人たちの気高い勇気の歴史の延長線上にあるということを。

 だからこそ、私たちは「ハッピー・プライド」を合言葉にしながら、先人たちの勇気を受け継ぐべきではありませんか?

 確かに近年の保守派バックラッシュは凄まじいものがあります。LGBTの権利回復が進むとこれほど強烈なバックラッシュが襲ってくるなんて、10年前に誰が予測できたでしょう。

 しかし、絶望するのはまだ早い。打ちひしがれるのはまだ早い。
 私たちはそもそも、暗闇の、孤独のどん底から這い上がってきたのです。
 慰め合うといい。傷を舐め合うといい。時には力を合わせて、私たちを殺そうとする人たちと闘うといい。

 我々は常にここにいる。
 我々は既にともにある。
 これらの事実を示す言葉が、「ハッピー・プライド」だと思います。

 ところで、この6月下旬に、私は記念すべき第10単行本『言霊の幸う国で』を刊行する予定です。プライド月間でこの本が出せたことを、とても嬉しく思っています。
 この本は、世界の中心で、とは言わないまでも、「文壇の片隅でハッピー・プライド」を叫んでいるような作品です。

「そうですよね、文学で怒っていいんだ。文学シーンも社会。差別に抵抗し、みんなで仕事をするんだ。李さんが仕事をし続けてくれることは、すべてのマイノリティにとって希望になる!」 ――山崎ナオコーラ(作家) 「記録せよ。記録せよ。記録せよ。私たちの生を。私たちの死を。私たちを憎むものらの醜い姿を。そして、私たちが何者であるかを。」 ――高井ゆと里(哲学者)

 この作品には物語もあれば論考もあり、フィクションもあればノンフィクションもあり、絶望もあれば希望もあります。
 私たちの尊い連帯の歴史を振り返りつつ、私たちの存在を認めようとしない人々の愚行も記録しています。

 これは時代に打ち込む楔であり、歴史の法廷に提出する陳述書です。
 社会的な問題を決して個人的な問題に矮小化しない、時代の記録にして、怒りの文学です。
 決して読んでいて楽しい作品ではありませんが、2020年代前半の日本、ひいては世界のクィア・コミュニティを取り巻く状況を、後世の人たちが振り返り評価する際に、絶対に参照しなければならない書物の一つになると思います。

 私はこの書物を、見知らぬあなたに、そして後世の人々に託したいと思います。
 これは私の勇気と、そして闘う意志の証です。

 くすむ虹でも、いつかは燦然と輝きを取り戻すと信じています。
 そうしたら、また虹のもとで会いましょう。

 ハッピー・プライド!

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