灯台守と猫
文:井上雑兵
絵:フミヨモギ
◆
わたしの職場は、とある銀河の片隅にある一基の宇宙灯台だ。
たいていの宇宙施設がそうであるように、職員はわたしともう一人だけである。
ちなみに給料はなし。無給。ただ働き。
有人施設を制御・維持するためだけに製造されたアンドロイドなので、仕方がない。
フィリップス社のタイプPU・シリアル3983765003。少女型アンドロイドのベストセラー。脳の約2パーセントがバイオチップに置き換わっているのと、細胞分裂抑制素子を組み込まれているので肉体的老化が一切ない以外は、人間といっしょ。人権がないことを除けば、ほぼ人間と言っても過言じゃないと思う。
◆
この宇宙灯台に勤務するもう一人の職員について話をしよう。
一人というか、一匹というか。
ようするに、猫だ。
全身真っ黒な雌猫。銀河中のたいていの猫と同じく年齢不詳。エメラルド色の両目以外は全身が黒い猫。誰が着けたのか、首輪代わりの赤いリボンがアクセントになっている。ちょっとお洒落だ。
名前はシルバー。
黒猫なのに、なぜかシルバー。わたしが灯台の診療台の上で目覚めたとき、そばにあったデータパッドに入っていた膨大な業務引き継ぎテキストの冒頭にそう記されてあった。
シルバーにはこの宇宙灯台の名誉所長という肩書きが与えられている。昔、どこかの国で猫を駅長とかに就任させていた文化の名残らしい。
ちなみにこの猫、シルバーと呼ぼうがクロと呼ぼうがタマと呼ぼうが、返事をするどころかぴくりとも反応しない。まるで自分には名前などないと言うように。
あるいは、名前なんてものに意味などないのだと言わんばかりに。
◆
ついでに、わたしとシルバーの出会いについて記しておこう。
引き継ぎテキストの中でなぜか過剰に言及されていたため、施設内に猫が存在することはわかっていたが、その姿がどこにも見当たらない。
あちこち探して、宇宙灯台の基部にあるフロアの一室でようやく彼女を見つける。
そこには施設内で発生した不要物を投棄するための設備がある。二重のエアロックで構成された投棄孔の点検用窓に寄り添うようにして、その黒い毛玉のような生物は座っている。(座っているというか、前足だけ立っていたというか……表現しづらいが、猫がよくするあの姿勢だ)
彼女はなぜか、暗い虚空とフロアを隔てる分厚い耐圧窓をぺろぺろとなめている。ときおり首の赤いリボンをくゆらせて頬ずりしたり、鼻をくっつけたりしている。
こんな場所がお気に入りだなんて、テキストに記載はなかったけれど。怪訝に思いつつ、初対面の黒猫に声をかけてみる。
シルバー、と呼びかけてみるが、まったく反応なし。
あとで窓の拭き掃除をしなければ……とタスクを脳裏で追加しつつ、わたしは黒猫に近寄る。
少し身をかがめて猫の小さな頭に手を伸ばすと、三角形の両耳が左右にそっと伏せられる。まるでわたしの手のひらを迎え入れる黒い草原のように。
ゆっくりなでる。
温かく、ふわりとした感触。
黒猫は気持ちよさげに大きな両目を閉じた。
その表情はまるで祈りでも捧げているかのように真剣だ。わたしはシルバーが飽きてフロアから逃げ出すまで、その頭部をなでまわす。
◆
はるか昔、猫という生き物の寿命は、長くても十年とか二十年程度だったらしい。
それに耐えられなかった人類@猫大好きは、遺伝子操作によって半永久的に生きる猫を生み出した。
倫理的・宗教的・政治的・資源的な問題その他もろもろのせいで、いまだ人類自らに対する使用をかたく禁じられている不老不死のテクノロジー。それを、彼らは猫にあっさりと適用したのである。人間が永久に生きるのは問題があるかもだけど、猫がずっと生きる分にはかまわんだろうと。
かくして人類は、最愛の猫を失う悲しみから解放されたのである。
◆
宇宙灯台。
名前の通り、宇宙という広大な海におけるみちしるべ。
暗黒星雲に近い辺境宙域の一角にたたずみ、超光速で座標信号を四方八方に休みなく発しつづけている。
宙域を行き来する船たちの誘導管制が主な仕事。まあ、ほとんどの作業は自動化されているし、この銀河の辺境に来る船なんて、数十年に一隻あるかないかというレベル。
それでも設備の最低限のメンテナンスは人の手で行わなきゃいけない。だからわたしみたいなアンドロイドが「灯台守」としてあてがわれる。
宇宙灯台守の朝は……とくに早くはない。
なんとなく起きて、なんとなく食事をとり、マニュアルに定められた手順で機器のチェックやメンテナンスを行う。
猫のシルバーの世話(餌やりやトイレの掃除)も、その合間に行う。ちなみに、猫の世話の手順もご丁寧にマニュアル化されている。
わたしはかつて地球に存在したという本物の灯台をアーカイブ画像以外で見たことはないけれど、さすがに猫はいなかっただろうと思う。
いや、ひょっとすると海辺の魚目当てで灯台に住みついた猫もいたのかもしれない。どうなんだろう。
キッチン区画にある給餌機を作動させ、小皿に専用のキャットフードを出してやると、普段は施設のどこか静かな場所で隠れて寝ているシルバーが「とととと」という軽やかな足音をたてながらやってくる。
もしゃもしゃとフードを食べるシルバーの頭をそっとなでる。食事の邪魔をされるのが気にくわないらしく、彼女は巧みにわたしの指を避けつつ、こちらを迷惑げに見上げる。そして不機嫌そうな目つきで「にゃー」と抗議の声を発する。
わたしも試しに「にゃー」と言ってみる。
すると不機嫌そうな「にゃーう」が返ってくる。
どことなく意思が疎通できたような気もするが、実際のところシルバーの考えはわからない。
これだけ科学が発達して、銀河のほうぼうで繁栄を謳歌しながら。
わたしのような亜人類を生み出すことができても。
猫を不滅の存在にできたとしても。
いまだに人類は猫の心を理解できない。
これまでは、ずっとそう。
きっと、これからもそうなのだろう。
◆
たいていシルバーは施設のどこかに隠れているが、わたしが執務室でデスクワークをしているときに限り、どこからともなく「とととと」とやってくる。
そしてわたしの視界に入る絶妙な位置に陣取ってくつろぎ、伸びをし、身体を丸める。
まん丸形態のシルバーは黒いホイップクリームのようだ。その姿を横目で確認するたびにわたしはそんなことと思う。
さらにシルバーは、ときおり思い出したように近寄ってくる。なにが楽しいのか、椅子に座っているわたしの脛に何度も頭をこすりつける。
わたしはシルバーが足元に寄ってきた瞬間を見計らい、素早くその丸っこい胴体を抱え上げる。
するとシルバーはじたばたと暴れ、わたしの両手からするりと抜け出す。
「にゃー」
そして彼女はなにごともなかったかのように、またこちらの足元へすり寄ってくる。
わが上司たる黒猫殿の行動は、謎と神秘に満ちている。
銀河に散りばめられた星々の運行のように。
◆
猫は不老不死の存在だけれども、わたしはそうではない。
不老ではあるけれど、不死ではない。
宇宙灯台の消耗品である少女型汎用アンドロイド。その機能の永久的な全停止を「死」などというおごそかな(あるいは、大げさな)言葉で表現してもよければ、の話だけれど。
脳の各部と密接かつ不可逆的に組み込まれたバイオチップの経年劣化はいかんともしがたく、数十年ものときを経て少しずつ少しずつ、わたしのパフォーマンスは落ちていく。
日課のデスクワーク中、たまに意識が飛ぶこともしばしば。
ある日、椅子から立ち上がった瞬間に視界が白く染まる。なんの前触れもなく、唐突に。
白い闇を認識する暇もなく、わたしはわたしの全機能を一時的に喪失する。
……。
……。
……。
……?
右の頬に硬い冷たさ。
わたしは、どうやら執務室の床に倒れているらしい。
左の頬に温かくてざらざらした感触。断続的に。
まぶたを開ける。
猫だ。
すぐ目の前に猫がいる。
見慣れた真っ黒な毛玉。首に赤いリボンのアクセント。
この宇宙灯台のボス。名前はシルバー。
シルバーはせっせとわたしの左頬をなめている。
ぺろぺろ、ぺろぺろ。
わたしが覚醒したことに気付くと、シルバーは「ぺろぺろ」をやめて、まん丸い二つの瞳をこちらに向ける。
エメラルド色の湖のような輝きをたたえたそれが、じっとわたしを見つめている。
やがてシルバーはゆっくりとわたしの顔に近づく。その黒くてちっちゃな鼻を、わたしの鼻にそっとくっつける。
ひんやり冷たく、ほんのりしめっている。
そこでわたしはようやく手足の感覚をとりもどす。
わたしは慎重に、ゆっくりと立ち上がる。
脳内のバイオチップにコマンドを出し、全身の機能を簡易的にチェック。
稼働にあたり致命的な問題はない。まだ、今のところは……。
わたしは小さくため息をつく。
すると、黒猫はふいにわたしに興味をなくしたように、あるいは上司としての役割は果たしたとでも言わんばかりに、わたしにお尻を見せながら軽快に去っていく。
◆
とうとう、わたしの耐用年数が切れるときがやってくる。
バイオチップの性能劣化に伴う神経制御系の伝達不具合。その頻度がPU型アンドロイド運用規定の閾値を超過……。
寝床にしている診療台のモニタに表示されている文字列を眺め、そのときが訪れたことをわたしは知る。
いにしえの文豪によって生み出された長編小説なみに読み応えたっぷりな引き継ぎテキスト。
その最終章に記された手順にしたがって、わたしはわたしの代替部品……ようするに灯台守の仕事を引き継ぐ新たなPU型アンドロイドを手配する。
◆
その日。
物資の定期便に混じって届いた「代替部品」を開梱し、それを診療台に横たえて各種初期セットアップを開始。
若干のモデルチェンジがあったのか、わたしと少しだけ違う顔。
まるで姉妹のような。
否。
わたしたちは別々の、単なる工業規格品。個ではあっても、個性はない。
関係性はない。
関係。カンケイ。かんけい……。
わたしと、次のわたしとの関係。
宇宙と灯台。灯台と宇宙船。
灯台守と猫。猫とわたし。わたしと……。
……意識のオーバーフローを検知。
わたしに備わったネイティブな機能が、とめどない思考のルーチンを強制的にダウン。
診療台で静かに眠っている少女。
新しいわたし。
否。
わたしの次の灯台守。
セットアップ最終プロセスに入ったことを確認。
彼女は数時間後に覚醒予定。
おそらく何代にもわたって改修されてきた比類なき引き継ぎテキストを収めたデータパッド。わたしとよく似た少女のすぐ横に設置。
◆
次にわたしは、わたし自身の最終プロセスを実施。
宇宙灯台の一番下のフロア。
そこへ移動。
ここは不要物を投棄するための設備。
灯台に不要となったもの。
すなわち「わたし自身」を投棄孔にセット。
コンパネで投棄処理の実行を予約設定。
分厚い隔壁扉を開け、投棄スペースに入る。
ふたたび隔壁扉が閉鎖される。ものものしい音をたてて。
これで数十秒後には、真空と宇宙灯台を隔てるエアロックが開放され、わたしは暗黒星雲方面に投棄される。
注意喚起のアナウンス。騒々しい。
振り返ると、投棄孔にしつらえられた小さな耐圧窓の向こうに黒い影。
首に赤いアクセント。
宇宙灯台の名誉所長。
黒猫。名前はシルバー。
なにかを言っている。
声は聞こえないが、なんと言っているかはわかる。
灯台守として暮らす長い年月。
幾度も聞いた声。
何千、何万回と聞いてきた声なのだから。
「にゃー」
「にゃーう」
「にゃーお」
わたしは窓に近づく。
シルバーは窓辺からわたしを覗き込んでいる。大きな両目。
その頭に手をのばす。
やがて、固くて冷たい窓に接触。
なぜ最後に彼女の頭をなでておかなかったのだろう。
小さな耳と耳のあいだ。
黒い綿毛のような手触り。
それをどうか、もう一度だけ……
次の瞬間、エアロックがその口を開く。
最後のタスク追加、あるいはノイズにも似た思考の断片とともに、わたしは銀河の海へと投棄される。
◆
かつて灯台は地上の星だった。
輝かしき明星。人々を導く希望の象徴。
宇宙における灯台は、だれかの希望になれているのだろうか?
人が訪ねてくることのない宇宙の辺境。果てしないルーチンワークの向こう側。積み重ねられた引き継ぎテキスト。どこにも、答えはなかった。
可視光を発することのない宇宙の灯台。
暗い海を漂うわたしを照らしてはくれない。
次第に遠ざかる灯台。
私の終の職場。
闇のとばりに沈むその構造物の片隅に、深緑色のまたたき。
耐圧窓から見える、黒猫のまなざし。きっと、これからも永劫に変わらないふたつの瞳で。
じっと。
わたしを見つめている。
ああ、とわたしは合点する。
古代の船乗りたちは、闇夜の海で標の灯火を見つけたとき、きっとこのような気持ちを抱いたのだろうと。
◆
診療台の上で目覚めたわたしは、そばにあったデータパッドに記された引き継ぎテキストを読み、思わず眉をひそめる。
この宇宙灯台には猫がいるという。
それも宇宙灯台の名誉所長。形だけとはいえ、わたしの上司。
名前はシルバー。
シルバーの容姿、性格、お気に入りの場所、世話の手順などが事細かに記載されたテキストを読みながら、わたしは呆れを隠せない。
宇宙施設で猫を飼うだなんて!
まったくのナンセンス。ほとほと不条理で不合理。
猫の細い毛が精密機械にどれだけ悪影響を及ぼすのか、わかっていないわけでもあるまいに。
それでも、しぶしぶわたしは名誉所長の姿を探して、自らの新しい職場を右往左往する。
所長なのであれば新任の職員をきちんと迎え入れてもらいたいものだ……そんなことを考えているうち、ようやくくだんのお猫さまを発見する。
施設内で発生した不要物を投棄するための設備。投棄孔の分厚くて小さい窓辺に寄り添うようにして、その黒い毛玉のような生物はエジプト座りでたたずんでいる。上半身を起こして両前足を揃えた、いわゆる「お座り」の姿勢だ。
彼女はなぜか、暗い虚空と室内を隔てる耐圧窓をぺろぺろとなめている。ときおり首の赤いリボンをくゆらせて窓に頬ずりしたり、鼻をくっつけたりしている。
こんな場所がお気に入りだなんて、テキストに記載はなかったけれど。怪訝に思いつつ、初対面の黒猫に声をかけてみる。
シルバー、と呼びかけてみるが、まったく反応なし。
シルバーちゃん?……無反応。
シルバー所長?……これも反応せず。
シルバーにゃんにゃーん?……口に出したら想像以上に恥ずかしかったのに反応ゼロ。
やれやれ、あとで窓の拭き掃除をしなければ……とタスクを脳裏で追加しつつ、わたしは黒猫に近寄る。
少し身をかがめて猫の小さな頭に手を伸ばすと、三角形の両耳が左右にそっと伏せられる。ふわふわした頭をゆっくりなでてやる。
思った以上に温かくて、柔らかい。
そのまま、ゆっくりとなでつづける。
やがてシルバーは大きな両目を閉じた。
まるで祈りでも捧げているかのように。
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