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欲ある、シン・ブッキョウ

伝統宗教の仏教では、欲を捨てよ、欲を持つから苦しくなる、煩悩が諸悪であるとされます。
高次元の方は、全てを求めても良いと欲を肯定します。
これは相反するような感じがします。
しかし、私はすごく共通点を前から感じるんです。得度などしてないド素人の私があれこれ語りたいと思います。

ブッダは苦しみの原因は煩悩だと言いました。
いろんなお経に書いてある通り、あらゆる欲を分類して、その欲による因果を説いてます。
その苦しみを逃れるために般若(智慧)を持ちなさい、一体それは何なのかを理解しなさいと言います。決して欲を捨てなさいとは言ってません。
この般若とは宇宙の法則を知ることです。欲の根源を知ることではありません。

禅とかは、足るを知る、欲を捨てろとされますが、禅の本質と離れています。
これは、後付けの儒教の影響を感じます。
曹洞宗開祖の道元などは、宇宙と繋がる心身脱落などを言いまして、欲の捨て方なんて逆にどうでもいい、そんなレベルの話なんてしてないんじゃないですかね。

法華経に観音経があります。長い法華経の中で、突然ぽっこり異質な存在です。
その観音経では、観音菩薩の名を唱えれば何でも叶うという話が終始です。あれでもこれでも、欲を肯定してくれる観音様は庶民に大人気です。

浄土真宗の親鸞は、欲を捨てることに耐えきれず、欲を肯定して妻を娶りました。
そもそもブッダは、欲深いのは悟れないけど、すべての欲を捨て厳しい苦行で修行することも悟れないと気づき、中道を唱えました。
生活の妻帯なんて悪しき欲ですか?

修験道や密教などの、荒々しく激しい修行は何のためにされるのか。森羅万象の霊力を得て、呪力を高めて、人の願いを叶える力を得るためです。
言い換えると、引き寄せの法則を実践してあげる人になることになってます。
世界平和を実現したいという欲を叶える為に、千日回峰行などを行います。
密教では愛欲をも悟りの道です。


欲なんて俗世の話です。もっと宇宙の真理に向かうと、欲の問題は些細なことになります。

「華厳経」は、すべての存在現象が、そのまま心のうちに取り込まれて、全宇宙が心の中にある宇宙の法則の話です。素晴らしい話ですが、日常的ではないので庶民に不人気です。

大乗仏教の唯識は(西洋哲学でいう唯心と同じ)、意識のあり方を分類してます。
意識→末那識→阿頼耶識
深層心理学などで語られる、
意識→無意識→超意識
顕在意識→潜在意識→霊性意識

などと分類されるのと同じです。
肉体として、エーテル体やアストラル体などと分類してるのも、視点の違いで同じです。
唯識の話も、もっと詳しく分類してますよ。
もちろん人間として分類されたほうがわかりやすいということで、実際は分類ではなく境界線は溶け合ってます。
そしてこれは「空」の思想につながり、あらゆるものは実体がなく、意識によって現象につながるアシュタールさんの話そのものになります。
こうなってくると欲の善し悪しなんてレベルじゃなくなってきますよね。

強欲は仏教のみならず、あらゆる宗教で苦しみの原因とされてます。そりゃそうですよね。
だからといって、強欲と欲をゼロにするのとは違いますよね。


欲を捨てるために修行するって、何か先人たちの本質から外れている気もするんです。
wantは純粋な欲求です。
これを、叶えなければならないとか、逆に欲を捨てねばならないとか、have toに拗れちゃうと歪みます。
欲よりも歪みが問題な気がします。
ブッタやイエスでさえも欲は捨ててません。
欲を捨てられたら、前人未到の史上初です。

イエスやブッダは高次元の方に通じるものがあります。弟子やその後の教団によって歪められてきました。
伝統宗教の中から本質を見極めたいとする欲深い私です。
熱心に伝統宗教の教義通り取り組んでいる方からみたら、私の解釈は邪道な餓鬼道でしょう。
あの「シン・〇〇」シリーズにように、私の演出するシン・仏教はフィクションですので、本気で怒らないでくださいね。

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