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厳しくするべきか、優しくするべきか

指導者や親は常に問われます。
もっと厳しくすることが大事なのか。
いやもっと優しくするから理解してくれるのか。

実はこの問いが意味ないのではないでしょうか。
受け手の存在を無視しているのが優しくありません。
受け手が自分に厳しければ、厳しさが有効になる正しさになるでしょう。
受け手が信用されてなければ、厳しさは反発にしかならないでしょう。
問題は、受け手とのミスマッチです。

受け手も一定ではありません。
ある部分では自分に厳しく、ある部分では優しくというよりも自分に甘く、さらにそれは日々変化しています。
昭和の厳しい精神論指導も、欧州の20世紀まで続いたムチ打ちを家庭でも行っていた教育も、時代が変われば厳しさを超えた虐待になってます。
精神的にも肉体的にも追い込まれた受け手も、あの時代があったからこそ今があるなどと肯定してしまったら、厳しさも善となってます。

昨今の精神的な不安定な人は、自分に厳しいだけで、時代が変われば全員マゾのような自己虐待だったと言われる時代が来るかもしれません。
精神が病むほど自分に厳しいなんて、自己虐待する過去の自分を訴える、そんな厳しさの循環します。

頭のいい人こそ、結局は精神論にたどり着く、そういう話もあります。
確かにアシュタールさんなど高次元の存在は、意識で現実を作る精神論ともいえますね。
昭和脳「気持ち次第だ!」
高次元「気持ち次第ですよ」

いや、似て非なるものか。

頭が悪い精神論→頭が良さそうな理屈→頭が良い精神論
脳筋の根性論の精神論から、一周回って高周波数の精神論に戻る感じでしょう。
そう考えると、
頭が悪い厳しさ→頭が良さそうな優しさ→頭が良い厳しさ
こういう一周回るのもありそう。
抗って自分の都合よく考えても、宇宙の原理は変わらない厳しさとも言えますね。

このように受け手の問題にもなります。
苦しんでる人は共感してくれるところを、都合よく肯定します。
自分を肯定してくれるところが正しいと思い、大金さえも払います。
「肯定してくれる人は、お前の敵だ」と表現する指導者もいます。一理あります。
うまくいってないのだから、お前のあそこがダメなんだと言ってくれる人が味方である時もあります。

手厚く助けるのも、優しさの1部ですし、甘やかしと表裏一体です。
相手の自由を尊重する優しさも、ほったらかしで責任放棄と表裏一体です。
何が優しいか何が厳しいか、ではなくて、受け手とのマッチングが大事ですね。

マッチングアプリとはいい名前です。
使われ方によっては、未来ある出会いにもなるし、無駄な消耗する日々にもなります。
厳しいも優しいも、先生と生徒のマッチング、親と子のマッチング、こんな風に言うと卑猥な良からぬ関係を想像してしまうぐらい、マッチングという言葉自体が汚れてしまいました。
そんな私の社会への目線が、厳しすぎるのでしょうか、それとも優しすぎるのでしょうか
単なるうがった見方ですね。



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