私のメンタル遍歴、よかったら見ていってください。
みなさん、こんばんは。MIZUPIです。
相変わらず前回の投稿から時間が空いてしまいましたが、いかがお過ごしでしょうか。
最近は暑い日が続いていますね。
パートナーはクーラーつけっぱなしでいいよと言ってくれますが、どうしても電気代が気になって消してしまう私です。
(実家にいるときはつけっぱなしだったのに…)
大変些細な私事ではあるのですが、4月末に30歳になりました。
そして、5月いっぱいで、退職しました。
転職ではなく、無職です。
以前の記事にも書いたような気がしますが、パートナーのおかげで今は生活させていただいてます。
退職した理由はいろいろありますが、一番は心身ともに疲れ果ててしまい
動けなくなったこと。
そして、復職したときの自分のはたらく姿が想像できなかったこと。
結局はメンタルが理由なのですが、なぜ私がこんなにもメンタル面に不安を抱えているのか、お話ししてみようと思います。
ここから先は少しセンシティブに感じる方もいらっしゃる内容だと思うので、死に関する話は無理!という方は読み飛ばしていただけますと幸いです。
少し話が逸れますが、私は何かがきっかけでメンタルを傷つけてしまったというわけではなさそうで、小学校高学年のときに母に向かって「もう死ぬから!」と叫んだのを覚えています。
それから中学生になり、そろそろ高校への進学準備が始まるとき、父が自死しました。
父とはケンカ別れでした。それでも、死んだのはとてもショックで、毎日泣いて過ごしました。仏間に安置されている父が、ぱっと目を開けたように見えたときもありました。
父が亡くなった場所に近づくのはとても怖くて、父方の祖母の家で、祖母とお布団を並べて寝ていました。夜中に祖母が何度もうなされて、泣いていたのも覚えています。
父が亡くなって初めて、心療内科に罹りました。
先生の診断は「うつ」でした。
カウンセリングと処方薬で、なんとか生きて、受験勉強も私なりに頑張りました。
父が亡くなったとき、父方の祖父は「みんなで頑張ろうね」と
私たち残された家族を励ましてくれました。
でも、表情には出さなかったものの、本人は相当辛かったみたいです。
父の死から大体一年と半年経ったころ、父の後を追うように祖父が自死しました。
祖父とはケンカ別れではないものの、大きなショックを受けました。
身近な人の予想しない死がこんなふうに続いてしまうなんて、と。
私は高校一年生の頃はいわゆる「いじめられグループ」の一人で、学校に居場所はなく、毎日のように学校を辞めたいと母に相談していましたが、母は「学校を辞めるのはダメ。今の高校を辞めるなら、転校しなさい」
と言われ、頭もあまり良くなかった私は転校を諦め、毎日耐えるように過ごしていました。その頃も心療内科に通っていましたが、やはり薬で解決する問題ではなかったように思います。
残りの高校生活2年間は友人にも恵まれ、なんとか高校を卒業した私は、4年制の専門学校に進学しました。
このときは特に何もお金のことは考えずに夢だけ追っていましたが、
今思えばシングルマザーで娘ふたり、奨学金も使わずに専門学校に行かせてくれたのは母のおかげ、そして父が遺してくれたもののおかげだと思っています。
専門学校に進学したものの、家族ふたりの突然死でメンタルがボロボロになっていた私は、通院し精神安定剤を飲みながら、時には授業を途中で抜けて休みながら、勉強していました。
入学してわりとすぐに、素敵だなと思った方とお付き合いさせていただくことになりました。
ですが、付き合ってから徐々に「あいつが作ってきた弁当なんか食べたくない」と陰で言われていることを知ったり、一ヶ月後には「実は好きな子がいる。だから一緒にはいられない。じゃ」と言われて、号泣する私、学校の休憩スペースにひとり置いていかれました。今は「あんな人ろくでもなかったな」と思えますが、当時はかなりショックでした。
ここまで書いていて気づいたのですが、このままひとつずつ語っていくと
かなりの超大作になってしまうので、続きを簡単に書いておきます。
専門学校を卒業した私は、一流ベンチャー企業(?)に、名門大学の卒業生たちが並ぶなか、唯一専門卒として採用されましたが、直属の先輩にいじめられ、人事の方にも嫌味を言われ、そもそも体育会系すぎる社風についていけず、泣きついた心療内科では「なに?診断書ほしいの?じゃあ適応障害って書いておけばいい?」とあしらわれ、とても悔しかったですが、その診断書を出して、入社から3ヶ月で退職しました。
今でも家族には「大手の会社だったのにね〜」と言われますが、正直私はメンタルを殺されてまで働くのが良いことだとは思っていないので、辞めて正解だったと思っています。
退職したその年のうちに転職先が決まり、忙しい日々を過ごしていましたが、夜の23時半まで残業、今でいうカスハラ、私の特性が理由ですが請求書など、神経を使う作業ではミスばかり、これまた会社の一部の人にも嫌われ、傷病手当を貰いながら休職したのち、退職。
この頃罹った病院で最初は躁うつと診断されましたが、診察を重ねるうちに統合失調症と診断され、障害者手帳を申請するに至りました。
そして統合失調症の療養中に薬の副作用が原因で錐体外路症状が発現、家事もできなければ、着替えやシャワー、食事もまともにできない身体になってしまって、当時の彼には大変迷惑をかけました。
そんなお世話になった彼にも、途中からお金を取られる一方で、最終的には「俺はもうお前を幸せにできない。別れよう」とお決まりの台詞でさようならし、またまた泣きながら彼のことを夢に見る日々が続きました。
フラれたことが相当ショックだったのでしょう、マッチングアプリにも勇気を出して挑戦しましたが、10戦10敗。毎回、遊ばれて終わりです。
ここまで来ると、人を信用することが中々難しくなってきます。
私は去年の年末に「もうパートナーは作りません」宣言をして、仕事一本で頑張って生きていこうと決めたのですが、どうしても諦めきれない私は「これが本当に最後だから」と自分に言い聞かせ、参加した街コンで今のパートナーに出会います。
(ごめんなさい、また長くなってしまいました…)
いま私は、これ以上にないくらい幸せで、充実していて、楽しい毎日を送らせてもらっています。
今まで辛いこと、悲しいこと、たくさん経験してきたつもりです。
でも、30歳、節目の誕生日を素敵なパートナーと迎えられて本当に幸せです。
今まで起きたこと、経験したことも全部ここに繋がっていたのかと思うと、悪くない人生だったな、と思うこともあります。
それでもやっぱり、ひとりの夜は怖いし、幻覚や幻聴もあるし、
身体が動かなくて一日寝たきりの日もあるし、
パートナーは「今は休むときだから、焦らなくていいよ」といつも言ってくれますが、彼自身が多忙な中でも私の面倒を見てくれている、その申し訳なさと不甲斐なさで泣くことも、投げやりになることもあります。薬をたくさん摂ったときもありました。
そんな私のことを心から想ってくれて、応援してくれる人が今はまわりにたくさんいます。その事実に今日は心からありがたい、嬉しいと思ったので、敢えて振り返ってみました。
これから先、ここまで読んでくださったみなさんにも、
私にも、誰にも等しく、それぞれのかたちの幸せが訪れますように。
また次回、よろしければお付き合いください。
それでは、おやすみなさい。
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