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エッセイ「愛についての講義を終わらせようと思う」#執筆観

注)この文章にはいくつかの読み方がある。数多ある良文に対峙するように「真剣に読む」の他に、「ハロウィンで獲得したお菓子を片手に、ただスクロールする」や「大人になってから中学時代の文集を見るように大笑いしながら」などである。どちらかと言えば後者をお勧めする。このような注を付するのは、筆者の羞恥心ゆえのことなので、どうかご容赦頂きたい。

 思えば「」について20年近く考えてきたようだ。「愛」や「愛に付随するもの」や「愛から下った先にあるもの」や「愛の上流にあるもの」。
 それは詩となり曲となり、最近では小説の形をとるようになった。
 とてもありがたいことに、拙著、短編『アポロンの顔をして』も、中編『あれもこれもそれも』も公開からそれなりの年月が経っているにもかかわらず、今だに足跡は残るし、スキを付けてくれる読者もいる。噛みしめるように、ありがたく思っている。

君はいずれ詩を書かなくなる
 かつて大変お世話になった方(A氏と呼ぼう)に言われた言葉だ。予言めいたものではなくて、詩なんか書いてないでその情熱を勉強や仕事に向けなさい、という訓戒だったように思う。しかし僕は今もまだ書いている。A氏への反発が全くないとは言えないが、やはり書かないでは生きていけないからだと思う。
 不思議なことにその方は元々、老荘思想の学徒であり、唐詩や日本の近代詩にも造詣が深かった。少し前に話題になった生産性と逆行する学問・芸術である。A氏は今では生産的な活動に心血を注いでいるようだった。「詩を書かなくなる」は僕ではなく、自身に当てた言葉のようにも、今更ながらに思えるのである。

 人々の興味の方向が時代に左右されるように、「愛」の形も容易に変わってしまう。その度に僕は右往左往する。20年前のラブソングは今では絶対に流行らない。それでも普遍的な何かを求めて、ヘッセや長田弘を読み、中原中也や立原道造を口遊み、時に日本の和歌や古代の神話の世界へと小旅行をする。

掴んだら、ほら、形を変えて、想いばかりが弾けていた。

 23−24歳の頃に僕が書いた詩。もがいていたのが分かる(笑)

 いつだって愛の形は多様だし、呼吸をする間にすら形は変わる。そう、捉えどころがないものなのだ。
 過ぎてしまえば何も残さない欲動だって、金品・容姿・才量を等価で交換したがる婚姻だって、自分をなかなか認められないゆえの押し付けがましい愛だって……いつだって「愛の姿形」をして其処彼処に横溢している。
 ある時はそれらを嫌悪し否定したところで、気付いたら自分自身が担っていたりする。自分を嫌悪し否定しながら。
 そしていつしか「言葉にできない」という真理に辿り着くのだ。いや、そのことを諦めるのだと思う。目の前にある多様な「愛」に懐疑を抱いた経験のある人の多くは、愛の言語化に敗れて、ここに辿り着く。それでいい、それでいいと思う。普通は「愛」なんて経験的にしか、懐古的にしか指し示せない。

 そして、このような真理にいち早く辿り着いた一人が、エーリッヒ・フロムであるように思う。フロイトの欲動から生じる愛を批判的に再解釈した彼は、父権的な愛だけでなく母性的な愛と人類発展の歴史との観点も含め論考する。その眼差しは、愛の普遍性にではなく、「愛」が生まれる条件や背景に向かうのである。そして社会心理学の立場からの考察によって、資本主義に端を発する進歩主義・効率至上主義にこそ愛が生まれにくい土壌を見出す。

 彼の著作『愛するということ』において真の「愛」とは、普遍的な孤独を克服するための能動的な合一であり、その愛を世界や人類への愛に通じさせるものである。一方で世間に横溢する愛の多くは、何かしらの交換手段に成り下がり、担い手を世界から疎外するものだと言う(要約力の乏しさ⤵︎)。

 フロムはその著作において、進歩主義的な社会において失われがちな、本質的に「人を愛する行為・信念」を求めて旅をする。当時の社会でそれを失わずに生きていくにはどうしたら良いか、そんな葛藤をまざまざと見せつけられる。最終的には……

(愛における)信念の修練についてこれ以上何かを言おうという気さえ起きない。

 本著の末尾でフロムは心理学者としての言語の限界を仄めかす。そして

もし私が詩人か説教師だったら、もっと言おうと努めるかもしれない。

 とする。私はこの言葉を限界に対する落胆ではなく「委託」と捉える。フロムの絶望の中に光を探すような眼差しが愛しくて、能動的に引き受けたくなるのだ。しかしそれにはどうすればいい?
 名付けられないものを指し示すのが詩の十八番。名付けられないものを儀礼や慣習を通して体得させるのが宗教の役割。そして名付けられないものを蓋然的に実感させるのが物語の醍醐味。きっとnoteの読者はこのことに多少は賛同を寄せてくれるのではないかと、勝手に期待をしている。

 フロムのような新フロイト派の学説が後にどのような系譜に繋がったのか、どのように評価されたのかを私は知らない。今では全く通用しないものになっているかもしれない。しかし学問や智恵に対して失礼に当たるかもしれないが、今のところはその行く末を知ろうと思えない。
 僕が「愛」を探索した20年は旅路と呼ぶには烏滸がましいもので、カッコつけても彷徨くらいだろう。フロムの『愛するということ』はそんな僕の五里霧中の足元を照らすの灯明になってくれたのだ。いつだって懐疑的な「愛」に、一欠片の信念を灯してくれた。
 だからこれからは、人の言説に寄りかかるだけではなく、ここを足がかりにして、自分なりに「愛すること」に挑みたいと思う。

 ここでA氏の話に還ろう。
 中国哲学の双璧は、儒家思想と老荘思想である。中国哲学を掻い摘んで話してはならないと知りつつ敢えていうなら、前者は秩序立った社会を目指す父権的で生産的な思想、後者は茫漠・混沌とした世界で共存して生きるための人間的な思想である。秩序と神秘、ロゴスとカオス、人為と自然の対立。しかしここではどちらが真理とかいう話ではない。思想は矛盾を悪とはせず、両行して人を導く

 A氏とはもう疎遠になってしまったけれど、もし一言告げる機会があるなら、こう伝えたいと思う。
「僕は社会秩序の構成員として生きながら、詩を捨てずに両行しようと思う」
 確かに混沌としていた「愛」についての講義は、暫定解をもって一旦終わったようだ。だいぶスッキリとしたから、詩を終わらせるという手もあるのだろう。
 しかし終わりは始まりであるし、フロムから勝手に受け取った委託もある。そして講義の後に実践が待っているのは世の常である。
 僕はこれまで通り、いやこれまで以上に青臭くって稚拙かもしれない、「愛すること」を愛することが無限に広がっていくような、そんな詩や物語を続けていく。

さあっ、笑うなら笑えっ!
これからも宜しくお願いしますm(._.)m

【引用・参考図書】
玄侑宗久「私を宥めてくれる『老子』」
エーリッヒ・フロム 著、鈴木晶 訳
 『愛するということ 新訳版』

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