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作品を〈書きながら〉考えていること【エッセイ】

 初めに自身の作品を列挙しますが、他人の自分語りが苦手な方は次のパラグラフから読んで頂けたら嬉しいです。

 2022年は小説、小説、小説の年になっている。3月までは中編『花の矢をくれたひと』、3〜4月は短編『アポロンの顔をして』の再掲載、そして今は、これらと並行して始めた長編『葬舞師と星の声を聴く楽師』の連載を進めているところだ。
昨年までのプチスランプを忘れられるくらい、筆が乗っている。

 スランプ脱出の契機が何だったのははっきりとしないが、そのひとつには「創作のハードルを下げる」という意識の転換があったと思う。素晴らしい作品群が書籍でもWebでも簡単に手に入り、目に飛び込んでくる中で、つい「自分の身体感覚に見合った創作」を見失いがちである。もっと簡単に言うと憧れを自分のものと勘違いしてしまうような現象が、創作の中には潜んでいる。そういった憧れの作品も、深く読み込んだり、長く触れ合ったり、書写したり分析することで、自分の血肉にすることはできるだろうが、経験的になかなかそこには至れないのだ。

 僕は詩から文芸の世界に入った人間なので「美」とか「芸術性」といったものに囚われてしまいがちだ。こだわる、とか、求める、ではなく囚われてしまう。こんなところにも「自ら=みずから/おのずから」の罠がありそうだけど、一旦「受動的に」囚われてしまうとしておこう。
 つまり作品を書いても「詩情が美しくないからダメ〜🙅‍♂️」「文章が芸術的じゃないからダメ〜🙅‍♀️」と自身にダメの烙印を押してしまう。昨年はそんな状態だったのだ。

 そんな中で、ハードルを下げるきっかけを与えてくれたのはレフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』を読んだ経験である。「いや、世界文豪の名作を読んでよくもいけいけしゃあしゃあとハードルを下げるなんて言えるな!」とお叱りを受けるのは覚悟の上だ。表現・描写、構造、思想、諷刺、詩情、全てが完璧と思われる(少なくとも僕には思われた)作品だが、物語自体は大衆的だし、表現の大部分も意外とラフなのだ。だって基本構造は「不倫逃走劇 × 真実の愛」だもの。もちろんそんな軽いタッチの中には、深淵な思想、豊かな詩情、目を見張る表現が散りばめられている。ただ、ずっと肩肘張っていないと読めないような作品ではなかった。ああ、もっと大衆的で良いんだ。と思わせてくれる経験だった。

 それぞれの読書体験に依ると思うのだが、僕はかつての日本文学に多少の窮屈感を覚える時がある。奥深い心情、特異な体験、胸に刺さる真新しい表現、こういったものが求められているような気が(勝手に)している。それらを「芸術性」と勘違いすることがままある。そういう時には決まって「分かる人にしか分からないよね」という声が聞こえてくる。一方で、近年の芥川賞などでは比較的平易で読みやすい作品がノミネート・受賞されているようで、ますます「芸術性」が分からなくなる。「芸術性」と「大衆性」の違いって何だろうか?

 そんなことを考えていたら、先日、小説家/哲学者の千葉雅也さんの呟きを見て、目から鱗が落ちた。

基本的に作品経験において脱目的的な要素、状態が多くなると、エンタメよりも芸術寄りになる。ただそのことが必ずしも作品の良さを保証はしないが。
逆にエンタメとしての完成度を目指す作品においては、脱目的的な面が多いとそこに作者の身体性が宿ってしまって邪魔に感じられるのだろうと思う。
千葉雅也さんのTwitter2022/04/18の呟きより

 「脱目的的」というキーワード。これが僕の頭の中から抜け落ちていた。千葉さんの小説や、哲学関連の書籍はいくつか読ませて頂いているが、ちゃんと理解できているとは到底思えないので、この言葉も間違って解釈しているかもしれない。でも恐れずに、自分なりの解釈で話を進めていこう。

 この目的、というものをふたつの層で捉えた。ひとつは物語の描写においてだ。夏目漱石を読んで、川端康成を読んで「あ〜、退屈だなぁ」と思う経験をした人は少なくないだろう。「この描写、意味ある?」と読み飛ばしたくなったり、「この物語っていったい何なの?」と思わず本を閉じたくなる感覚。これがひとつの「脱目的的な要素・状態」だと思う。

 例えば、主人公の男がバーでひとり酒を飲むシーンがあるとする。合目的な物語であれば、そこに別の登場人物が現れて物語が進んでいく、もしくはバーテンダーとの会話が何かしらの伏線となる。
 一方でこれが脱目的的な要素・状態だとしたら、酒の色とか、一枚板の木目とか、を散々描写しておきながら、翌日バーとは一才関係のないストーリーが進んでいく。この場面が男の美学を示唆したり、物語の雰囲気を象徴するような目的を持ってしまう場合は、もしかしたらアウトかもしれない。

 もうひとつの層とは、作品を通じて何がしたいか、である。フィクションとて、何か目的性を帯びてしまう場合がある。古くから小説が教育、啓蒙、主義主張のために用いられてきたことは自明なことだ。現代なら「人を感動させる」「人を驚かせる」「承認や名声やお金に換える」ために作品を発表するのは当然のことだけど、それらの意図が「芸術性」から離れていくのは仕方のないことだろう。

 特に「脱目的的」な状態とは、現代社会とすこぶる相性が悪いように思う。映画を倍速試聴する人がいる時代だ。コンテンツで溢れ返っているのに、みんな忙しなく余白が少ない。素早く、切れ味良く、感動や驚きを得たい。目的志向の需要/供給のマッチング。芸術から離れていっても、承認がそれをカバーする。今の文化の主流はそんな感じだと思う。

 余談にはなるが、とある写真家が細マッチョ肉体労働のインド人の写真に「これはジムで鍛えた筋肉ではありません」といった言葉を添えてTwitterにアップしたところ、まあまあ大きな炎上騒ぎになった。もちろんアンチ派はジムで体を鍛えている人たちで、このツイートを揶揄だと感じた模様。写真家の意図はそんなところにはなくて、ただ素朴な事実を伝えたのみだったのだろうが、違う風に受け取られてしまった。「ジムで鍛えた体は本物じゃないとでも言うのか?」と。これは合目的的であることがあまりに常態化している人たちに「裏読み」を招いた現象だったと考察している。

 さらに脱線するのだが、映画『トロイ』アキレス役/ブラッド・ピットの肉体美は芸術であり、モデル/ブラッド・ピットの肉体美になると少し芸術から離れる、という感覚が自分の中にある。あくまで少し。同じ人物の同じ肉体なのだが「アキレスは何か目的をもって(少なくとも美を求めて)鍛えたわけではないだろう」という脱目的的な妄想が、アキレスの美を芸術として讃えるのではないかと思う。もちろん「強くなるため」に鍛えはしたのだろうから、これが詭弁と言われたらそれまでだけど。

映画『トロイ』Plan B Entertainment より


 話を文学に戻そう。小説の目的について考えていると、いつも村田沙耶香さんのインタビューを思い出す。

小説って、私にとって本当に「聖域」だったんですよね。唯一、他人の顔色をうかがうことなく、小説と自分の喜びにだけ向き合えるというか。私、ワープロが小説の神様につながっていると思っていたんです。ワープロを通じて作品が神様のもとに届いて、神様がいいと思ったものが本になるシステムだと(笑)。それくらい、小説の世界って私にとっては教会のように神聖な場所だったんです。
でも、そのとき、すごくあざとい気持ちになったんです。「大人が喜ぶ起承転結」みたいなものを狙って書いてしまった。そうしたら、それが本当に汚れた小説に思えたんです。作品のために作家が書いてるんじゃなくて、作家自身が愛されようとしてるってことが、自分にとっては最悪の、不誠実な作品でした。
下記Web Siteより引用

 正直、耳(目?)が痛い。小説には、作者が神様になるパターンと、小説の中に神様がいるパターンのふたつがあると思う。村田さんは後者なのだろうが、ここまでの徹底ぶりストイックさには頭が上がらない。
 小説の神様に委ねる、小説の神様と対話する、というのも脱目的的な行いのひとつではないか。神様が合目的に物語を動かす場合も大いにあるが、少なくとも、合目的に生き過ぎている、思惑に囚われている〈わたし〉が全権を行使するよりはずっとマシじゃないかと考えたりもする。

 最近の自分の執筆方法。

プロットが決まっている中で、勝手に動き出す人物、動き出す物語、動き出す文章、これらを制御する/しないの選択を逐一くだしていく。動き方の大抵はインプットしてきたもので決まっている。「自らが小説を(ゼロから)創作する」みたいな感覚はあり得ない。僕の場合。
自身のTwitterより

 物語を破綻させたくないので、プロットは大きく変えないようにしたいのだが、もしかしたらそれが変わってしまうくらい小説の神様に任せた方が、創作者として真摯な態度で、かつ面白いのかもしれない。これは今後自身がどうなっていくか楽しみなところだ。

 芸術とエンタメの違いは?という問いから、脱目的的と合目的、小説の神様は誰か、などの私論を述べてきたが、肝心な「文学とは何か」の議論が抜けている。ただこれについては最近読んだ理論書に、自分なりに納得のいく解が記されていたので、それを転載するのみに留めておく。

「文学の文学らしさ」は、しばしば文学を他の目的で使われる言語から区別するような言語の組織のしかたにあると言われる。文学とは言語そのものを「前傾化」する言語だと言われる。つまり言語を見慣れないものにし、「ほら!私が言語なのよ!」とばかりに、こちらに言語を突きつけてくるので、奇妙な作られ方をした言語を相手にしていることを忘れることができなくなるということである。
ジョナサン・カラー 著、荒木映子・富山太佳夫 訳
『文学理論』岩波書店(2003)

 僕が日本文学に感じていた「胸に刺さる真新しい表現が求められている感覚」というのはあながち間違っていなかったのだろう。

 まとめは自身の小説三作の振り返りにもなるので、興味のない方はどうぞここで閉じて下さい。
『花の矢〜』は紛れもなくエンタメ小説で、小説の神様は小説の中にいる。そもそも神様たちが活躍する話ですし(←)。『アポロン〜』は芸術性を求めようとした文学(を目指したもの)。
『葬舞師〜』は基本構造はエンタメ小説だし、頭の中の映像を言語化している部分も多いので文学からは程遠い。けれど『アンナ・カレーニナ』を読んで感じた文学の多層性、ひょんなことから行き着いた脱目的的と合目的の理論、そして小説の神様たちと、仲良く喧嘩しながら完走を目指します。

なんと4,500字! いったい誰が読むんだ?
ここまで読んでくれたあなたは多分稀有な存在なので、一生大事にします。結婚してください!

それでは、また作品でお会いしましょう。

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