見出し画像

7 三日月に架け橋 【葬舞師と星の声を聴く楽師/連載小説】

連載小説『葬舞師そうまいしと星の声を聴く楽師がくし』です。
前話の振り返り、あらすじ、登場人物紹介、用語解説、などは 【読書ガイド】でご覧ください↓

また今話はnote神話部にも参加しますので、記事末尾の解説までお読み頂けたら嬉しいです!

前話

7 三日月に架け橋


 何でもない土地を舞台へと一変させる。この点においてアシュディンは生来、比類なき才を有していた。湖を取り囲む植物の途切れた一隅。適度な湿気で固められた土の平地は、まるで彼のために空間を明け渡しているようだった。左右に生い茂る灌木たちまでが、すっかり彼の舞を見守る側になっていた。
 先ほどからアシュディンは、腰を低く落としながらしきりに身を旋回し、脚で地面に図像を描くような、ゆったりとした舞を見せている。正円、半円、弧、逆回旋。足場を変えて繰り返される線描。しかしその目的は、決してシンボルを完成させることではない。多くの舞踊と同じように、体の動きのみで人を魅することだ。
 脚を出す角度に応じて、枝のように体躯がしなる。旋回に連動してあらゆる関節がらせん運動を見せる。朝顔の蔓が際限なく伸びていくような、生命の神秘を感じさせる舞が繰り広げられていた。
 ハーヴィドは俯いたまま、かの異質なリュートを奏で続けていた。旋律はなく、いくつかの和音の組み合わせがひたすらループされる。同じ動きをいっさい繰り返さない舞師と対比され、音が弾き出されるたびに場の静けさが増していくようだ。

誰も彼も新月のごとく十全な生を受け
ことごとく三日月として生涯を終える
生は満月にも半月にもならずに終わる
天の月がいくど満ち欠けを繰り返しても
人の生には永遠も輪廻もない

さまよえる亡者たちよ
王侯も求道者も罪人もみな
湖上に揺らめく三日月の手前で
ただ踊りながらその生涯を終えよ
スファーダの息吹の通う処で舞うなら
かの神がそなたの塵を抱擁するだろう

詩節「三日月たちの舞」スファーディ教聖典より

 魂の平等を説く詩節から舞が生まれ、それが後に葬送儀礼に取り込まれた。詩にある通り、王族だろうが商人だろうが、三日月の儀にはみな同じ葬舞を手向けられることになっている。
 しかし、スファーディ教を国教に指定するファーマール帝国はむしろ身分社会を推し進めていた。そのため通夜の際には階級ごとに違う舞が用意されている。(なおアシュディンがザインの母の墓前で舞ったのは、最も位の高い者に送る葬舞であった) 
 死後に彷徨える魂があるとしたら、彼らは三日月の儀を経ることによってようやく、出自や所業や禍福といった〈生前のしがらみ〉から解き放たれるのだ。

 同じ足場で回転を繰り返すアシュディン。軸足の機敏な動作が光る。次第に円の径が狭まっていき、重心が持ち上がる。しばらくゆるりとしていた舞に、わずかな速度がもたらされた。
 ハーヴィドが最も低い弦の一本を力強く弾く、途端、アシュディンは真上を向いて両手を掲げ、片脚で直立したままぴたりと動きを止める。ハーヴィドはその一瞬のうちに奏法を変えた。神秘的な和声が一本一本の不規則な撥弦によって奏でられていく。
《こいつ、タイミングぴったりじゃねぇか》
 アシュディンは驚いてほんの一瞬ハーヴィドを見やった。しかし彼はじっとして弦を掻き鳴らすばかりで、こちらを窺っている素振りは見られなかった。
 舞は次の局面へと移った。大地に散々写してきた模様を、今度は宙に描いていく。躯体を弓形ゆみなりに反らせ、軸と反対の脚を三日月の下側の弧に見立てる。アシュディンの背中側にぽっかり空いた空間に、よく調和の取れた円が錯覚された。
 ザインは──ただひとりの観客はそこに亡き母の面影を見た。
 もっとも重要な場面を越えても、ダアルの試練は終わらない。三日月はひとつではない。大往生、不遇の死、生後間もない死、殉死に事故死に病死。あらゆる死が平等と救済を求めて、この儀礼の場に姿を現す。そのひとつひとつに敬意を払い、いのりを捧げていく。
死を忘れることなかれメメント・モリ
 遠い異国の警句とおなじ思想が、この宗教では舞という違う形で残されているのだった。

 あらゆる大きさ、あらゆる高さ、あらゆる向きの三日月を虚空に刻印していく。酷使されるアシュディンの肉体と精神。正確に、滑らかに、そして厳かに。アシュディンは改めてダアルの困難さを痛感させられていた。
 終盤に差し掛かると、少し前から感じていた左足裏の違和感が強くなってきていた。
《……テンポ、遅すぎるだろ!》
 足のりそうな徴候を察知した。緩徐な動きに腱がひくひく言っている。いよいよ限界が近づいていた。曲のテンポを上げるよう横目でハーヴィドに訴えかけるが、彼は相変わらず目を合わせようともしない。
 アシュディンは何としても転倒だけは避けたかった。元・帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールとしての矜持が少なからず影響していたが、それよりも、単純にザインとハーヴィドに格好悪いところを見せたくなかった。
《もう……ダメだ……》つま先が滑り落ち、片脚立ちの姿勢が大きく崩れかけた。
 その時、ハーヴィドは狙い澄ましたようなタイミングで弦を力強く弾き上げた! 鋭い音波がアシュディンの耳をつんざく。すると体がふっと宙に浮くような感覚を覚え、左足が勝手に大地を把持した。
《な、なんだ、これ?》アシュディンは体勢を立て直しながら、異様な身体感覚に戸惑った。明らかに自分の意思による動きではなかった。倒れる自分が目に見えていたはずが、倒れずに舞を続けられている。こんなことは初めてだった。
 その後も、要所要所でハーヴィドの弾き出す音色に助けられた。しかし別の見方をすれば、まるで操られているような心地がして、アシュディンは不気味さを感じざるを得なかった。

 葬舞ダアルは間もなく終演を迎える。両腕が三日月を象った姿態を取ったとき、舞師と、水面に映る月と、天の月とが縦一直線に並んだ。死者の彷徨える地上と、イマージュの世界と、神話の世界とに真っ直ぐな橋が架けられた。
〈その “ひとつひとつ” にお前のお母さんはなったんだよ〉ザインは以前アシュディンに言われた言葉を思い返し、舞の中にその意味を直観した。
《おかあさんは、おそらにいる、こころにいる、そばにいる》そんなことを頭の中で反芻していた。
 ややあってアシュディンは舞台に倒れ込んでしまうが、こうして三日月の儀は無事に終わりを迎えたのだった。


 ──管理小屋までの帰途。
「いってぇーっ。おい、あんまり揺らすんじゃねえよ!」アシュディンはハーヴィドの背におぶわれながら、耳元でやかましく抗議した。歩く振動のたびにふくらはぎに痛みが走る。
「うるさい、湖に投げるぞ」ハーヴィドの脅し文句に妙な真実味を感じ取り、アシュディンは怯んで即座に黙った。そして声をやや落として
「どうせまた〈修練不足だ〉とか言って馬鹿にするんだろ?」と、声真似を交えながら、拗ねてみせた。
 ハーヴィドはそれに答えなかった。
 ふたりの視線の先にはザインの、暗闇を軽快に歩く姿があった。少なくともあの少年にとっては、今宵の舞は充分なものだったのだろう。
 しかし、ふたりの間には妙なわだかまりが残っていた。それを先に指摘したのはやはりアシュディンの方だ。
「お前には聞きたいことが山ほどあるんだ」
「…………」
 沈黙を決め込むハーヴィドだったが、彼もまた、アシュディンに問いただすべきことを胸中に抱えていた。ただそれを、言葉で伝えた方が良いか、それとも音で伝えるべきか、ひとり決めあぐねていた。


── to be continued──

次話

【解説】

メメント・モリ(ラテン語:Memento Mori)
「(自分がいつか)死ぬことを忘れるな」という古代ローマの警句です。古代では「だからこそ今を楽しめ」という文脈で使用された一方で、キリスト教世界では「現世の楽しみなど虚しいものだ」という違った意味で用いられました。15世紀のペスト大流行後には、この思想の象徴として〈死の舞踏〉と呼ばれる絵画が盛んに描かれました。骸骨が踊りながら、年齢・身分・職業を問わずあらゆる人を墓場に導く様子を描いたものです。作中では、死の虚しさと平等性を象徴する言葉として、葬舞に関連して紹介しました。

水面の月
「三日月の儀」はインド六派哲学のひとつサーンキヤ学派の教義に着想を得ています。サーンキヤカーリカーという教典の注釈書に “水面に映じた月のように、すなわち1つの月が河、井戸、貯水池などの水面に見られるように” とあります。これは絶対的な1の存在(=ブラフマン)の映像として個々の存在(=アートマン)が知覚される、といった思想の比喩です。本作ではさらに月の姿を模す舞師を配置して、神・象徴・物質の3つを一挙に合一させる架空の儀礼を創作しました。

【オマケ】

ちなみにアシュディンの最後のポーズは
こんな感じのものをイメージしてます↓

モーニング娘。「LOVEマシーン」ASAYANより

↓マガジンはコチラ↓

#小説  #連載小説 #BL #詩
#ファンタジー  #mymyth

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!