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6 プレイ・イン・オアシス 【葬舞師と星の声を聴く楽師/連載小説】

連載小説『葬舞師そうまいしと星の声を聴く楽師がくし』です。
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前話

6  プレイ・イン・オアシス


「行くぞ! しっかり息を止めてろよ〜」
 アシュディンの言葉を合図に、ザインは大きく息を吸って口を目一杯膨らませた。つぐんだ唇がとても愛らしい。アシュディンはにやにやしながら少年の脇の下に手を入れると、ふたりは勢いをつけて水中へと潜った。向かい合うふたり。それぞれが立つ場所の水深は違っており、アシュディンの方がだいぶ深くなっていた。彼は意地悪をして、ザインを深い辺りへと運びこむ。宙ぶらりんになった身がさらに沈められた。足がまったくつかない。しかし少年はよく平静を保っていた。自身の口から、よく練られた配分で吐き出される泡を眺めながら、水中に響く音に耳をこらすくらい余裕があった。
 いよいよ呼吸も苦しくなってきて、身を捩って脚をばたつかせた。アシュディンは合図を察知すると、ザインの身を持ち上げて水面から顔を出してやった。
「ぷはーっ」濡れた髪が額に張り付いて、その下で屈託なく笑うザイン。アシュディンは少年につられて目を細めた。ふたりは先ほどからずっとこの〈あそび〉を繰り返していた。息を止めていられる時間が伸びていくのが楽しかった。

 アシュディンはザインを浅瀬の方にやって立たせると、あらためて周囲を見渡した。
 もっとも目立つのは左右にそれぞれり上がった丘で、その表面はこれまで散々渡り歩いてきた砂漠と同じ乾いた色をしていた。視線を少し下げると、いま身を浸している湖が、豊かな色と光の反射を湛えて広がっていた。一望のもとに見渡せないほどの大きさがあり、もっとも遠い岸辺に生えている木々がだいぶ小さく見えた。砂漠に点在していたようなしなびた植物は少なく、代わりに、青々と繁る草原くさはらと空に悠々と葉を広げるナツメヤシの木に取り囲まれていた。
 オアシスに到着してすぐさま飛び込んだ湖の中で、ふたりはかなり長い時間を過ごしていた。顔の火照りが収まっても、乾ききっていた肌がふやけ出しても、なかなか陸地に戻る気にならなかった。
 ──ふと遠くの方で声がした。
「おい! 奥の方は深くなっているから行くなよ」ハーヴィドだ。
 振り返ると木造の小屋がひとつ、ぽつりと佇んでおり、その手前の岸から湖にり出したデッキの上に、その男と駱駝の姿を見つけた。アシュディンはどうせ聞こえないだろうと思い「へいへい、口うるさい奴だな」と声を張らずに悪態をついた。すると、
「誰が口うるさいだ!?」と怒った声が返ってきた。びくりとして水中で足を動かした途端、足元の砂が舞って澄んだ水を濁らせた。

 しばらくして、アシュディンはデッキに這い上がり、天日干しされている衣類の傍に寝そべった。手足を広げて大の字になる。昼下がりの強い日差しを全身に受けると、濡れた若い肌が、あたかも光源そのものであるかのように煌めきを放った。
「ふ〜、生き返った〜」とアシュディン。
 呑気な青年を横目に、ハーヴィドは桶をぶんと振って駱駝の胴に水をかけた。達観した隠者のような駱駝の顔が、心なしか綻んだように見えた。
 ふたりが沐浴をしている間に、ハーヴィドはひとり、オアシスの管理人に使用料を支払い、ふたりの脱ぎ捨てた衣類を洗い、駱駝の世話までしていたのだった。アシュディンはそれらの行いにまったく気付いていなかったが、ハーヴィドも恩着せがましく伝えようとはしなかった。
 しかし彼はアシュディンのあまりに無防備な──ほとんどが露出した寝姿を見かねて、
「死んでようが生き返ろうが構わないが、沐浴が済んだのならそいつをどうにかしろ」と指を差して注意した。
 青年は恥じらう様子を露ほども見せず、からからに乾いた腰布を手に取り「悪い」とだけ言って、雑にその場所を覆い隠した。

 アシュディンが片膝を立てながら上体を起こすと、浅瀬ではザインがまだ水面と戯れていた。ハーヴィドもまた無邪気に笑う少年をひたと見据えた。
みそぎか」と訊ねると、アシュディンはつと立ち上がって腰布をしっかりと巻き直した。
「おう、当たり前だろ!  三日月の儀だ。喪主と舞師が揃って汗や砂まみれじゃいけないからな」と、今宵とり行われる儀式への想いを息巻いた。
 三日月の儀とは故人を送り出すための葬送儀礼のひとつ。通例では逝去の日から巡って、初めての三日月の晩に行われる。その由来はスファーダ教の聖典にあり、詩句を舞師が体で表現する葬舞そうまいが披露されることになっている。国境付近の村落、つまりザインの故郷でアシュディンが見せたものとは、また違う種類のダアルだ。
「場数を踏んでいるようだな」ハーヴィドは水を汲んだ桶を駱駝が飲みやすい場所に置きながら言った。
 アシュディンは「ああ、久々だけどな。腕が鳴るぜ」と言って、右脚で軽く飛び跳ねながら、踵でデッキを踏み鳴らした。

 ハーヴィドは少しばかりの時間、考え込むような素振りをしてから、腕をゆっくりと前に伸ばし、岸辺の一角を指し示した。
「湖の中心から見ると、日の入りはちょうどあの入り組んだ岸の辺りになるだろう。対岸に足場のしっかりした一帯があった。そこを舞台にする」
「おー、助かるわ。ありがとうな!……」アシュディンは反射的に答えたが、直ちに不可解な点に気がつき「は?」とハーヴィドの顔を二度見した。
 すると彼は突如、からくり人形のような硬い動きでアシュディンの眼下に膝をついた。
「今宵、彷徨さまよえる三日月を天に還すまでお供いたします。不肖の楽師が夜曲を爪弾つまびくことをお許しください」
「は?」
 あまりに突飛な言動にアシュディンの空いた口が塞がらなかった。
「お、お前、なんでそんなダアルの作法に詳しいんだよ? それにその口上こうじょう──」
「勘違いするな、形だけだ」
 アシュディンを遮ったハーヴィドの物言いは、いつも通りの、否、いつも以上に冷淡なものだった。彼は立ち上がると、荷物の山から布に包まれた楽器を取り出して、肩に背負った。
 そして振り返りざまに「ザインあのこのためだ。お前も浮き足立つなよ」と言い残して、ひとり管理小屋の方へと去っていった。
 アシュディンは呆気に取られながらも、彼の意図をおおかた理解した。つまり〈ふたりで〉三日月の儀を執り行うということだ。しかしあまりに急な展開に感情がまったく追いついてこない。
《浮き足立つな、なんて無理だろ》


 西の地平で太陽が大陸に口づけを交わしたとき、多くの大地は揃って頬を赤らめ、一部の大地はえくぼのように沈んで影を作った。そして熱の冷めやらぬ空とクールな空のあわいに、月が目を細めて、世界を覗きに現れた。
 その下で時が満ちるのを待つ湖。水面はさまざまな色彩を写し取りながら、独自の光沢も捨てきれずに佇む。しかし夜の色は端から着実に広がっていた。淡い三日月を映す余白が現れるまで、そう時間はかからなそうだった。
 みぎわから少し離れた場所に、ひっそりと腹這いになる平たい岩があった。まるで、いつかひとりの少年が訪れてきて、ここに座し、湖を眺める未来を見越して、長い歳月をかけて風にその背を削り取らせてきたかのようだ。
 運命の悪戯に翻弄された少年は大地の歓迎を受けながら、マントにくるまれ、夜が進むのをじっと待っていた。

 やがてひとりの楽師が姿を現す。旅中もずっと身に纏っていたマントが、ここでは神聖な装束のように見える。
 右手にはくだんの撥弦楽器が携えられていた。人頭よりひと回り大きい胴、そこから突き出した長いさお。全長はザインの身長ほどある。流通しているリュートよりもずっと大型で弦の数も多く、なにより、夕陽に照らされた砂漠のごとく赤茶色に燃える木の胴がひときわ目を引いた。
 ハーヴィドは汀と少年の間に用意されたむしろの上に胡座あぐらをかいて、楽器の胴を太ももに乗せ、棹を斜めに構えた。
 いちど右手の親指が弦の上を滑り落ちて、幻想的な和音が奏でられた。深い余韻が凪の湖畔に漂う──それも次第に衰えていき、消えるや否や、また同じ和音が重ねられた。調子を変えず、趣きも変えず、音は淡々と繰り返された。

 準備がすべて整うと、舞師は汀の舞台に上がった。〈いのり〉の時間が、三日月の儀が始まる。


── to be continued──

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