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「誰か」と「誰かの評価」を隠して読んでみませんか?【俳句エッセイ】

先日、夕食時に某人気俳句番組を観ていたところ、隣で家人がカレーうどんを啜りながら

この芸人さん好きじゃない。この句もまさに彼っぽくてイヤ

と漏らした。
僕はその句をすごく気に入っていたので、残念な気持ちになった。
確かに作者であるその芸人さんの個性は垣間見えるものの、句自体は読者の想像を掻き立て、読み手(もしくは書き手)を変えてもしっかり成立する作品だったからだ。

僕たちが文芸作品を鑑賞するとき、どうしても作者を意識させられてしまう。本が好きと言えば「どの作家が好き?」と聞き返されるし、自分が購入する本を選ぶときも作家別五十音順の棚から探すことがほとんどである。

ただ文学を味わったり学んだりする時にもっとも重要で基本的な原則に「テクストに即する」という態度がある。
これはつまり「誰が書いたか」ではなく「何が書いてあるか」を何よりも大事にする、という姿勢だ。

そして残念ながら、この文学的に真摯な態度というものが、権威や資本や人気によって失われつつあると、僕は危惧している。
つまり「偉い◯◯さんが言ってるから正しい」「賞を取った◇◇さんの本だから面白い」「SNSで人気のある⭐︎⭐︎さんの投稿はすぐにファボする」といった態度が蔓延している。

それの何が悪いの?

という批判が聞こえてきそうだ。申し訳ないけれど僕はこう考えている。権威、資本、人気に依拠して作品を評価することは、そっくりそのまま「自分の感性を信じていないし、それを育てていくつもりもない」と言い換えることができるのではないか、と。自分の感性を信じられなくなるのは結構大変だ(自験例が叫んでいる)

作者と作品を切り分けるトレーニングは極めて重要だ。まずはテクスト。1にテクスト、2にテクスト、3・4はテクスト、5に作者。くらいで良いと感じている。
それくらいテクストが読めて、初めて作者背景と作品背景を繋げ、味わい、感じ、論じることができると僕は思っている。

また文芸作品は読まれた時点で、作者の世界ではなく「読者の世界」になるという感覚も重要だと思う。誰が書いたかは比較的どうでもよいことで、書かれているもの、つまりテクストと自分との一対一のぶつかり合いなのだ。それをおろそかにして、誰かの解釈・評価に流されてしまっているようでは、本当の意味で文学の面白さにのめり込めない。

特に俳句を含めた詩歌の場合、鑑賞は読者の想像に委ねられる部分が大きい。その余白を意識して作者は詩歌を詠んでいる。
だからそこでテクストに連なって登場すべきなのは、作者名でも誰かの批評でもなく、あなたの感性や経験なのだと、わたしは強く思う。

以上、鑑賞者の視点のお話。
そして僕はアマチュア作者として、これを意識し利用したいと思っている。そうせざるを得ない。なぜなら、権威も資本も人気もない僕は、真摯であるしかないからだ。

僕がここまで熱く語るのは、やはりその芸人さんの句をとても良いと感じたからだ。人格が好きじゃないからという理由で切り捨ててしまうにはあまりに勿体ない句だった。
しかしカレーうどんを啜りながらその句の良さを語り出した僕は、家人に白い目で見られた。

このくだりで、僕は「家人に僕がその作品が良いと思ったところを押し付けた」ことは反省しなくてはならない。まず書いてきたことと矛盾しているし、結局文章との接し方は人それぞれなので、押し付けはよくない。
ただ、作家で読むものを選んだり、作家の評価で選んでいる人がいるなら、やはり「それはもったいないよ」と言いたくなってしまう。
でも、やっぱり押しつけは良くない。
うーん、ぐるぐる
魔法陣ぐるぐる🌀(昭和)

というわけで、家人には禊として外食ランチを奢っておいた

そういえば、昔お世話になったインド哲学の教授が「妻娘に哲学の話を振ると白い目で見られて口聞いてもらえなくなる」と嘆いていた。
しかし次いで「ウパニシャッドに出てくる哲学者とその妻の対話に憧れる」と笑いながら言っており、僕はそこに学者の魂と本気を垣間見た。
男の子ってこーゆーところあるよね( ̄∀ ̄)

でもどうかな? 周りが見えなくなって、ちょっとイタイと思われるくらいに、作品世界にどっぷり浸かる本気。僕はそれくらい労力をかけて、文学を骨の髄まで味わいたいと思っている。

その方が、一冊・一頁・たった一行のテクストから、何倍も何十倍も楽しみを引き出せるのだから。コスパが良いのよ〜。笑

少々語気が強めになっていますが、僕は基本的に「異論は当然認めます」という姿勢でおります。ご意見・ご感想等あればぜひコメントをください。お話ししましょう♡


#俳句 #haiku #エッセイ #文芸 #文学 #詩歌

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!