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いちごつみ初体験/ハーデース

昨日は念願のnote句会に初参加させていただきました。
↓いきなり水羊羹をぶち込んでしまったw↓

俳句には憧れがありました。たとえば短歌を向かい合って読む詩歌だとするならば、俳句は同じ方向を見ながら読むような印象を持っています。景物・感情を挟んで対面する和歌、横に並んで共に愛でる、といったイメージです。

詩歌に限らず文芸作品というものは、個人の感情の開放や救済の役割を少なからず担っているものです。その際に、顔を見てウンウンと頷いてくれるような共感が良いか、横にいて同じ時間と空間を共有してくれるような共感が良いか……きっと甲乙つけられるものではありませんし、感情の開放という点では両方必要なのだと思います。

2つの歌型の特徴を完全に二分するつもりはありません。じっとり向かい合う俳句も、景を共有する短歌も、当然のようによくあるものです。
ただ僕の俳句への憧れはそのような横並びの感覚にあったということなのです。
和歌の一人称が限りなく自分*であるのに対し、短歌の一人称は共有されて広がっていく。一体感というより、連帯感と言った方が良いでしょうか。そんな孤独の癒やし方は、なかなか乙なものではないでしょうか。
(*ここでの「自分」とは「詠者」や「自己」ではなく、和歌の感情の「主体」のことです)

ましてや句会ともなれば、そのような喜びもひとしおでした。
麦笛さん、翠さん、唐揚げさん(とりあえず乗っかりますw)、本当にありがとうございました!

いつだって形から入るタイプだ。道具とか先に揃えちゃうタイプ。失敗は数知れず(泣)
文芸に当てはめるとしたら、

A とりあえず書く
B 作品を読んで書く
C 書評なども読んで書く
D 作法や理論を学んで書く
E メタ的な解析や分析に当たって書く

Aに近いほど実践的だし、Dに近いほど理論的。Eに至っては形而上的にまでなってくる。
AからCくらいまでで作品は書けるのかもしれないけれど、DとかEを読むことも、創作活動の醍醐味だと思っている。むしろ本来はそっちの方が好きなのかもしれない(いわゆる頭でっかちってやつね)。

しかし今回、俳句でAを試みたら、手放しの喜びを感じることができた。枠とか評価とか気にせずに、とりあえず作るって良いね!

文学ってなにかと二項対立がお好き。萩原朔太郎は俳句をアポロ的(美術的)、短歌をディオニュソス的(音楽的)と言っている。彼の『詩の原理』はこれ以外にも、主観と客観、浪漫主義と現実主義、といった対立構造を基にして書かれている。

当時はそんな理論や形而上に振り回されたりもしたけれど、今ならもう少し分かるよ。当然のように二分できないものばかりを扱っているから、暫定的・便宜的にそうしてきたことを。

とりあえず書く、とりあえず読む。それが一番大事(by 大事マンブラザーズ)。
そしてアポロンやディオニュソスとか書いてみて、また自分が小説を書けていないことを思い出す(汗)。
つべこべ言ってないで、とりあえず書いとけってことですよね。

脱線するけど、以前「ギリシア神話占い」というTwitter診断をした時、冥界の神ハーデースが出て、ものすごく納得してしまった。トホホな感じとか、地味なところとかね。もうこれからはハーデースとして生きていくと決意したくらい。そう……バーナム効果ってすごいね。
多様性の時代だし、ハーデース的文学を目指します←


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