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雑記と悪口

スタンスとして自らの孤独を引き受けてきた。それゆえか、自らの孤独を引き受けることが人を愛することの出発点だと、長きに渡って豪語してきた。
しかし現実的には、物事はそう簡単にいかない。

人と孤独を埋め合いたくもなるし、恋だ愛だの言いながら寂しい自分を人様の声と体温で満たすことだってある。
舐め合っていた孤独がいつの間にか綺麗な結晶に変わって、愛と呼べる日もくるのではないかとも思う。

人生は哲学ではない。しかし哲学をすることの意味がないわけではない。
言語化や類型化の面白いところは、例外が必然的に生まれてしまうことだと思う。
恋や愛はいつだって例外のところにあるのかもしれない。「バカだな自分」と天を仰ぐところに、大事なものが見つかるのだろう。

僕は「一貫性のある人」という種類の人間を好きになれない。社会において賞賛されがちな「一貫性のある人」は、裏を返せば「流動性のない人」だと思う。
「一貫性のある人」の中には、まあまあ頭が良い人がいる。あらゆる言葉や情報を、自分の言語や思考「パターン」に組み込んで咀嚼することに長けているのだ。

しかし、何か新しいものを真摯に受け止めたとき、戸惑いや、恐れや、混乱が訪れるのが本当だと思う。それらをちゃんと引き受ける人は、たいてい「一貫性のない」顔をしている。そして、その日話したことと、別の日に話したことが変わっていたりする。
僕は口ごもる人も好きだ。引き受け難い情報を突っぱねず、同意も反論もできずに自分と戦う人は、信頼できるように思う。

「一貫性のある人」は嘘つきだ。嘘つきであることに気付かない人だ。「一貫性のある人」は時々かわいそうだ。実はただ「便利な人」であることに気付いていない。
本当は、変わりたくても、変わりたくなくても、変わらないと決めても、変わってしまうのが人間だ。

仕事は好きだし嫌いだ。学問は役に立つし役に立たない。自分は良いし悪い。仕事も学問も自分も、ある時は素晴らしいし、ある時はみすぼらしくなる。
言葉で切り取ったものは全てある時点での位相にすぎない。全ては循環するし、その軌道も知られずに変わっていく。
こうしている間にも、僕はだんだん僕を嫌いになって、だんだん好きになっている。

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!