見出し画像

人の話は、程々がいいわ。~文化的な生活をただ送りたい人のdiary~

人の話を聞きすぎたら、とてもつかれた。
インプットはしようとすれば無限にすることができてしまうから。
もう、いらない。

わたしは、敬意のある関係性が好きで、てきせつな距離感も対等な立場もそうあれればきもちがよいし、それは私にとっては当たり前のことだった。

でも、他人はちがう。
ちがうことが多い。ほとんど違う。
なりふり構わず言いたいことをいう人もいる。

『この人は何を大切に思っているのだろう』
その人の大切なものが分かれば、大抵の言葉は解読しやすい。

正直、大したことないなと思うこともある。固定観念や視野の狭さがみえた時。世間の常識や自分の意見ではないことを信じている時。盲目的にそうやって世の中を見ているのが私にとっては興味が持てないのであった。

だから
もう一回聞きたいと思える話ってほんとうに少ないと思う。

人にやたらと干渉してきたり、依存的だったり、家族のことに『家族だから~』って余計な口出ししてきたり、正直わきまえろよって思う。そういう人が求めているのは自分だけの快楽。何も面白くない。

それぞれがそれぞれで楽しんでいれば、そういうことはないんじゃないかなって思う。

今、わたしは気持ちがいっぱいいっぱいで、これを描いているからどうしてもこういう書き方になっているけれども、やっぱり人の話だけ聞いているのはどうも苦しい。だから、掃き出し窓としてnoteを。

話し合えばわかると思っている人は、自分軸だけで暴力のように言葉を感情をふりまわしてくるけれども、わたしはそういう事は受け付けることができない。自分軸だけで、自分の視野だけで、自分の判断が正しいと言わんばかりに他者を傷つける人は、確実に「暴力」をふるっている。

自分以外の価値観があることを、自分の知らないことがあることを知らない人は愚かだ。そういう人が我が物顔で意見を言っていることが…

どんな人も許容できるなんてあり得ない。ましてや家族だからとか、勝手に決めつけてこちらが求めてもいないことをできる人。もう二度と関わりたくもないし、どこか遠くで幸せに暮らしてもう顔を見せないでほしいし、連絡もしてこないでほしい。

さようなら。
ただ、それだけが言いたい。


他人に言葉の暴力をしてしまう人が自覚的になる方法は、多くの人から同じことを言われること。無視されること。受け入れられないこと。多分、耐えきれなくなって怒り狂うだろうけれど、それでも甘んじて受け入れたらいけない、と思う。いい年になってからもそれを続けている人は、続けていられる環境があったからだろう。(誰かが話を聞いてその通りにしてくれていたから。ずっと、凶器を振り回していることに気が付かなかったのか。)

曖昧にその場しのぎに『そうだね』とか『その通りだよ』とか言ってしまったら、どうなるのかはその人を見れば何となくだけれど想像がつく。

親が教えてなかったのもあるかもしれないけれど、親を泣かせるくらい何かを主張してしまったり、言ってないことを拡大解釈してしまったり、被害者感覚が強かったりと…本当に対処しきれない。まぁ義理のお姉さんのことだけど。


この記事が参加している募集

週末プロジェクト

多様性を考える

( ῀ᢦ῀ )..