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チェットゥ・ベイカー、アストゥルージ・ジウベルトと日本


『チェットゥ・ベイカーが歌う』

1954年4月~5月ごろ、アメリカ連合国のPacific Jazz Recordsが、24歳のチェットゥ・ベイカー(1929年12月23日~1988年5月13日)のアルバム『チェットゥ・ベイカーが歌う』Chet Baker Singsの8曲入りの10 インチ LP盤(LP11)を発売した。
録音は1954年2月15日だ。

だけど私とは無関係」But Not For Me(3分00秒)、「何度も何度も」Time After Time(2分44秒)、「いとしいおかしなヴァレンタイン」My Funny Valentine(2分14秒)、「すぐ恋に落ちてしまう」I Fall In Love Too Easily(3分16秒)、「あなたみたいな人はもう現れない」There Will Never Be Another You(2分55秒)、「あなたなしでも十分やっていける」I Get Along Without You Very Well(2分54秒)、 「ときめきがなくなった」The Thrill Is Gone(2分46秒)、「希望の光を見つけ出そう」Look For The Silver Lining(2分36秒)

1954年6月10日発行、「アサヒ相談室」、朝日新聞社出版局編『贈り物』(朝日新聞社出版局、100円)の「バレンタインス・デー」に「日本では聞き慣れない名前だが、欧米では、二月十四日をバレンタインス・デーといって、盛大にお祝いをし、贈り物をやりとりする。日本でも最近、外人商店の店頭に、この日のための特別の飾りつけなどを見受けるし、外人との接触も増えてきていることだから、一応知って置いてよい日だろう」(13頁)とある。

1955年2月14日、東京・銀座で販売促進の新機軸として「バレンタイン・セール」がおこなわれたが、「バレンタイン・デー(St. Valentine's Day)」を知らない人が多かったため、効果は上がらなかった。

1956年10月、Pacific Jazz Recordsが、『チェットゥ・ベイカーが歌うChet Baker Singsの 12インチLP盤(World Pacific PJ-1222)を発売した。

1956年7月23日、30日に録音された26歳のチェットゥ・ベイカーの6曲が加えられた。

昔のあの気持ち」That Old Feeling(2分59秒)、「いつもあなたが」It's Always You(4分17秒)、「まるで恋してる人みたいに」Like Someone In Love(3分26秒)、「私の理想」My Ideal(4分19秒)、「恋したことなんかない」I've Never Been In Love Before(4分25秒)、「私の相棒」My Buddy(3分16秒)

1957年1月、家庭の衛生社発行の経済中流層向け健康冊子『家庭の衛生』2月号に「友愛の祝日 バレンタインデー」が掲載された。

 欧米では二月十四日を友愛の日バレンタインデーといって最近ますます盛になってきました。
 バレンタインデーの起りは、ローマ時代の若者達からで小鳥が愛の営みを交わす十二月半ばに戯れ合う風習がありますが……
 これから発して健全な男女道徳確立のために土地の有志が決めた集会日です。
 後に宗教上殉死した聖バレンタインの名をつけ、男女交際を抑圧せず、宗教的な行事を取り入れて、明るく解放したので、今日まで永続きし盛になってきたのです。
 この日に聖バレンタインを祈れば、恋人も我に帰りくたびれた夫婦の愛も、誤解された友情も戻るといわれているのです。
 そしてハート型に因んだ贈物を交すので、町のショーウインドーにはハート型の美しい商品が溢れるのです。
 ハート模様の服地、ネクタイ、菓子、ブラウス、アクセサリーが一番売れ、クリスマスと同じ派手な包紙に美しいリボンの包をかかえた男女は見てほほえましく、やって楽しいものです。
 勿論、恩師、先輩にも尊敬をこめて贈物をします。
 アメリカでは、片思いの人が愛の告白の代りにカードを贈ると御利益があるので、皆様のように内気な方にはいいですね。
 日本にもこんなに気軽に大っぴらに明るいプレゼントができる友愛の日があってもいいんじゃないかという声が大きくなってきました。
 最近では東大の日高教授[日高孝次(1903年11月4日~1984年8月15日]の主催する日高パーティの会員間で行われています。
 日高夫人もこのために欧米のバレンタインデーを視察して帰り、紹介に努めておられます。

1957年11月、日本ビクターが『チェット・ベーカー・シングス』Chet Baker Singsの13曲入りのLP盤(PFJ-5008、1,900円)を発売した。
あなたみたいな人はもう現れない」There Will Never Be Another You(2分55秒)が未収録だった。

ザット・オールド・フィーリング」That Old Feeling、「イッツ・オールウェイズ・ユー」It's Always You、「ライク・サムワン・イン・ラヴ」Like Someone In Love、「マイ・アイデアル」My Ideal、「恋を知らない」I've Never Been In Love Before、「マイ・バディー」My Buddy、「バット・ノット・フォー・ミー」But Not For Me、「タイム・アフター・タイム」Time After Time、「気のあうあなた」I Get Along Without You Very Well、 「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」My Funny Valentine、「ザ・スリル・イズ・ゴーン」The Thrill Is Gone、「すぐ好きになる私」I Fall In Love Too Easily、「ルック・フォー・ザ・シルヴァー・ライニング」Look For The Silver Lining

 ジャケット裏の解説文を引用する。

 チェット・ベーカーは此のアルバムで歌うと同時にトランペットを吹いている。この事自体驚くべき事であるが、更にこの様な性格を異にするヴォーカルとトランペットが同一人によって奏される事を知る時、驚きは更に倍化される。チェット・ベーカーは最初その驚くべき甘い声を以て音楽界にスタートした。然し今日では彼を“歌も歌えるトランペット吹き”と呼ぶか、“トランペットを吹ける歌い手”と呼ぶべきかは誰も決定しかねる所であろう。
 このレコードの片面には、彼が最初に歌い手として紹介された時の10インチLPに入っている曲が全部収められており、更に片側には、チェット・ベーカーの協力者、ピアニストのラス・フリーマンによってアレンジされた彼の新しいヴォーカルとトランペットの演奏が収められている。
 これらの歌を通して、あなた方は多分これらの甘美な歌の中に、言葉から言葉へとデリケートにたヾようトランペットのエコーを聴く事が出来るであろう。

『ジャズ・サンバ』

1962年4月20日、アメリカ連合国のVerve Records が、35歳のスタン・ゲッツ(Stan Getz、1927年2月2日~1991年6月6日)(ts)と36歳のチャーリー・バード(Charlie Byrd、1925年9月16日~ 1999年12月2日)(g)のアルバム『ジャズ・サンバ』Jazz Samba(33分12秒)の7曲入り12インチLP盤(V-8432)を発売した。
録音は1962年2月13日におこなわれた。

調子っぱすれ」Desafinado(5分47秒)を収めた。

1962年12月、日本コロムビアが、スタン・ゲッツ(ts)とチャーリー・バード(g)のアルバム『ボサ・ノバ』 Jazz Sambaの7曲入り12インチLP盤(VL-1065、1,500円)を発売した。
解説は26歳の児山紀芳(1936年2月12日~2019年2月3日)だ。

1963年8月、Verve Recordsが、36歳のアントニオ・カルロス・ジョビン(Antônio Carlos Jobim、1927年1月25日~1994年12月8日)のアルバム『デザフィナード(Desafinado)の作曲家が演奏する』The Composer of Desafinado, Plays の12曲入り12インチLP盤のモノラル盤(V-8547)、ステレオ盤(V6-8547)を発売した。
録音は1963年5月9日、10日におこなわれた。

イパネマ出身の女の子」The Girl from Ipanema(2分42秒)は、1962年にジョビンが作曲、ヴィニシウス・ジ・モライス(Vinicius de Moraes、1913年10月19日~1980年7月9日)がポルトゥゲス語(português)の詞を付けた歌「イパネマの娘」Garota de Ipanemaに、35歳のノーマン・ギンブル(Norman Gimbel、1927年11月16日~2018年12月19日)がイングリッシュ語歌詞を付けたものだ。

1963年12月25日発行、『音楽年鑑(昭和三十九年度版)』(音楽之友社、1,000円)、「大衆音楽」「ボサ・ノバ・ブーム」を引用する(114~115頁)。

 ブラジル原産の新リズムで、アメリカのジャズ・プレイヤーが好んで、これをとりあげ、アメリカのレコード会社も、積極的にこれを、前年度に流行したツイストにかわるべきものとしておした。そのため、アメリカだけで、百種類以上のレコードが売りだされ、日本でも、一九六三年度の新リズムと喧伝された。しかし、これは、在来のマンボ、ドドンパ、ツイストなどのような流行リズムとはならなかった。この原因は、ボサ・ノバが、リズム構造として、特色がなく、加えて、ダンスをともなわないものだったことにある。

『ゲッツ/ジウベルト』

1964年3月、Verve Recordsが、36歳のスタン・ゲッツと32歳の歌手ジュアウン・ジウベルト(João Gilberto 、1931年6月10日~2019年7月6日)のアルバム『ゲッツ/ジウベルト』Getz/Gilbertoの8曲入り12インチLP盤(V-8545)を発売した。
録音は1963年3月18日、19日におこなわれた。

このアルバムに収録された「イパネマの娘」The Girl From Ipanema(5分15秒)は、ジュアウンがポルトゥゲス語で歌い、当時ジュアウンの妻だった、22歳のアストゥルージ・ジウベルト(Astrud Gilberto、1940年3月29日~2023年6月5日)がイングリッシュ語歌詞で歌うものだ。

1964年4月1日、日本国は多民界通貨基金(International Monetary Fund, IMF)協定8条の義務を受諾し、輸出入取引等から生じる対外決済に関する公的制限を原則としておこなわないこととした。これにより、観光目的の海外渡航が自由化された。

1964年4月28日、日本国は、パリに本部を置き、フランセ語(français)とイングリッシュ語を公用語とする経済協力開発機構(Organisation for Economic Co-operation and Development, OECD)に正式加盟した。

1964年5月、Verve Records ‎が、ゲッツジウベルトイパネマの娘」The Girl from Ipanema(2分44秒)、スタン・ゲッツ風に吹かれて」Blowin' In The Wind(2分22秒)のシングル盤(VK 10323)を発売した。
「イパネマの娘」は、ジュアウン・ジウベルトのポルトゥゲス語歌唱部分を削除し、残りを切り継ぐ形でシングル・カットされ、大ヒットした。

1964年8月、World Pacific Jazz Recordsが、『チェットゥ・ベイカーが歌う』Chet Baker Singsの12曲入りの12インチLPのステレオ盤(ST-1826)とモノラル盤(WP 1826)を発売した。

1962年にステレオ録音が流行した際に、World Pacific Jazz Recordsは、『チェットゥ・ベイカーが歌う』Chet Baker Singsのステレオ盤を発売するため、新たにジョウ・パス(Joe Pass、1929年1月13日~1994年5月23日)によるギターを録音し、モノラル・テープとミックスした。

何度も何度も」Time After Time(2分44秒)、「私の理想」My Ideal(4分19秒)、「恋したことなんかない」I've Never Been In Love Before(4分25秒)の3曲を削り、曲順を変更し、「私を見守ってくれる誰か」Someone to Watch Over Me(2分57秒)を追加し、 12 曲を収めた。

1964年10月20日、11月3日に来日するはずだったスタン・ゲッツの来日中止が発表された。

1964年10月25日発行、「現代教養文庫」、伴俊彦(1911年~1965年)著『贈りもの相談』(社会思想社、240円)、「贈りものごよみ」「バレンタイン・デー(St. Valentine's Day)」に「戦後、アメリカから渡来して、今や、若い男女なら大抵知っている二月十四日の楽しい〝愛の日〟である。最初のころは、外人商社の飾窓に、この日の名をつけた飾りつけがされたのを見て珍しがられた程度だったのに、昨今は、新聞広告にも登場するし、デパートを初めあちこちの店頭に飾りつけと共に、この日に相応しい贈りものの品が並べられるほどの普及してきている。」(120~121頁)とある。

1964年11月1日、日本グラモフォンが新契約したアメリカ連合国の原盤販売会社「ヴァーヴ・レコード(Verve Records)」、「MGMレコード(MGM Records)」のうち、スタン・ゲッツヴァーヴ・レコードのアメリカ直輸入盤の発売を始めた。

1964年11月18日、アメリカ連合国のNBCで、ドロスィ・B・ヒューズ(Dorothy B. Hughes、1904年8月10日~1993年5月6日)のミステリ小説『ピンクの馬を駆れ』Ride the Pink Horse(1946年)原作、51歳のドン・スィーグル(Don Siegel、1912年10月26日~1991年4月20日)監督、33歳のロバートゥ・カルプ(Robert Culp、1930年8月16日~2010年3月24日)、48歳のエドゥメンドゥ・オブライエン(Edmond O'Brien、1915年9月10日~1985年5月9日)、34歳のヴェラ・マイルズ(Vera Miles、1929年8月23日~)主演のカラーのテレビ用映画劇『吊された男』The Hanged Man(87分)が放映された。

マルディ・グラ(Mardi Gras)の最中のヌー・オーリンツ(New Orleans)のナイト・クラブのディナ・ショーの場面に、スタン・ゲッツ四重奏団と23歳のアストゥルージ・ジウベルトが出演し、「イパネマの娘」The Girl From Ipanemaを演奏する。

『ゴウ・ゴウでのゲッツ』

1964年12月、Verve Recordsが、新スタン・ゲッツ四重奏団(The New Stan Getz Quartet)、24歳のアストゥルージ・ジウベルトの実況録音アルバム『ゴウ・ゴウでのゲッツ』Getz Au Go Goの12インチLP盤(V-8600)を発売した。
録音はニュー・ヨークのキャフェイ・オ・ゴウ・ゴウ(Cafe Au Go Go)で1964年5月22日に、ニュー・ヨークのカーネギー会館(Carnegie Hall)で1964年10月9日におこなわれた。

1964年12月18日、アメリカ連合国のシャーロットゥ(Charlotte)で、48歳のスィドニ・ミラー(Sidney Miller、1916年10月22日~2004年1月10日)監督の総天然色の映画劇『女子大生をモノにしよう』Get Yourself a College Girl(87分)が公開された。

劇中、37歳のスタン・ゲッツ、21歳のゲアリ・バートゥン(Gary Burton、1943年1月23日~)(ヴィブラフォン)、29歳のジーン・チュリコウ(Gene Cherico、1935年4月15日~1994年8月12日)(ベース)、26歳のジョウ・ハントゥ(Joe Hunt、1938年7月31日~)(ドラムス)と24歳のアストゥルージ・ジウベルトが「イパネマの娘」The Girl from Ipanemaを演奏する。

1965年1月15日、日本ビクターが、チェット・ベーカー(唄)『マイ・ファニー・バレンタイン』Chet Baker Singsの12曲入りのステレオの12インチLP盤(SMJ-7183、1,800円)を発売した。

マイ・ファニー・バレンタイン」My Funny Valentine、「ザット・オールド・フィーリング」That Old Feeling、「ライク・サムワン・イン・ラブ」Like Someone In Love、「マイ・バディー」My Buddy、「イッツ・オールウェイズ・ユー」It's Always You、「サムワン・トゥー・ウオッチ・オーバー・ミー」Someone to Watch Over Me、「ルック・フォー・ザ・シルバー・ライニング」Look For The Silver Lining、「バット・ノット・フォー・ミー」But Not For Me、「アイ・ゲット・アロング・ウイズアウト・ユー・ベリー・ウェル」I Get Along Without You Very Well、「アイ・フォール・イン・ラブ・トゥー・イージリー」I Fall In Love Too Easily、「ザ・スリル・イズ・ゴーン」The Thrill Is Gone、「ゼア・ウイル・ネバー・ビ・アナザー・ユー」There Will Never Be Another You

解説は31歳の岩浪洋三(いわなみ・ようぞう、1933年5月30日~2012年10月5日)だ。

 チェット・ベーカーの歌は不思議な魅力をもっていて、私達の心をとりこにしてしまいます。その声は中性的というより女性的でさえあります。しかし、そのニヒリスティックなムードとやさしい、そしていかにも素直な気持のこめられた歌は人の心を文句なしに打ちます。彼のトランペット・プレイは残らなくても、彼の歌だけはジャズ史上に永遠に残るでしょう。これは決して云い過ぎではないと思います。私もどちらかと云われれば、絶対に彼の歌の方をとります。彼のトランペットは立派なものです。しかし彼のラッパはマイルス・デヴィスの強い影響がみられます。ところが、彼の歌は誰にも似ていません。まったく彼独自のものです。
 彼の歌は多くのジャズ・ファンに愛されてきました。このレコードは吹き込まれてもう8年位になりますが、今なお、衰えぬ人気をもっています。ジャズ喫茶へいくと、よくリクエストされているのに出会います。もうレコード盤がすり切れて、シャーシャーいっているのが多いところをみると、随分リクエストされてきたのでしょう。
 ところが、今まで批評家からあまり正当に評価されてこなかったのはどうしてでしょう。彼の歌が歌としてはあまりに破格的だからでしょうか。しかしそんなことは問題ではありません。彼の歌が大きな感動を与える、それだけで充分ではありませか。彼は偉大なシンガーといっていいと思います。日本でもこのレコードは7、8年前に1度発売されたのですが、あまり高く評価されないまま一部の愛好者に買われただけだったのは残念なことです。

『アストゥルージ・ジウベルトのアルバム』

1965年2月、Verve Recordsが、24歳のアストゥルージ・ジウベルトのアルバム『アストゥルージ・ジウベルトのアルバム』The Astrud Gilberto Albumの11曲入りの12インチLP盤(V-8608)を発売した。
録音は1965年1月27日、28日におこなれた。

1965年5月28日、松竹セントラルで、映画劇『クレイジー・ジャンボリー』Get Yourself a College Girlの日本語字幕スーパー版が公開された。

1965年6月、日本グラモフォンが、スタン・ゲッツ・カルテットアストラッド・ジルベルト(歌)『ゲッツ・オー・ゴー・ゴー』Getz au Go GoのLP盤(SMV-1016、1,800円)を発売した。

ジャケット裏の32歳の岩浪洋三の解説を引用する。

▶スタン・ゲッツの新しい姿
 1964年秋来日が予定されながら、残念なことにお流れになってしまったが、来日予定のメンバーとして発表されたのがこのLPの顔ぶれである。コンサートが流れたのは惜しまれるが、このLPではじめてスタン・ゲッツの現在のコンボが聴けることになったのは素晴しい。
 最近のゲッツはずっと「ジャズ・サンバ」以来ボサ・ノヴァと取り組んでいる。これは商業的にも彼に大きな成功をもたらしたが、現在のゲッツにおいてボサ・ノヴァを演奏しているからといって、それを商業主義的な面からみようとすると、彼の音楽の本質を見逃してしまうことになろう。ゲッツはその真摯な演奏態度からみて、ボサ・ノヴァは彼の純粋な音楽的興味から演奏しているとみるべきだろう。「ジャズ・サンバ」ではギターの名手チャーリー・バードと組み、「ジャズ・サンバ・アンコール」ではブラジルの音楽家でボサ・ノヴァの創始者たちジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビムと共演し、ボサ・ノヴァのオリジナルな味を出していたし、「ゲッツ・ジルベルト」ではブラジルの歌姫アストラッド・ジルベルトとその夫君ジョン・[原文ママ]ジルベルトと組んでますます彼のボサ・ノヴァの探求はおしすヽめられていることがわかった。
 そして今度の最新盤でもアストラッド・ジルベルトと共演しており、今までのLPがスタジオ録音だったのに対し、今回のLPはニューヨークのジャズ・クラブ“カフェ・オー・ゴー・ゴー”Cafe Au Go Goにおける実況録音であるのも、彼の現在のプレイを知る上で大変ありがたい資料を提供するものである。このレコードには参加していないけれども、ブラジルのギタリスト、カルロス・ジョビムもしばしばスタン・ゲッツ・カルテットに客演して“カフェ・オー・ゴー・ゴー”に出演するといわれている。

1965年6月、日本グラモフォンが、MGM映画「クレイジー・ジャンボリー」よりスタン・ゲッツ楽団アストラッド・ジルベルト(歌)「イパネマの娘」The Girl From Ipanema(2分49秒)、スタン・ゲッツ楽団スイート・レイン」Sweet Rain(3分25秒)のシングル盤(DM-1031、370円)を発売した。

ジャケット裏の解説を引用する。アストゥルージがイパネマ出身というのは間違いで実際にはバイーア(Bahia)出身だ。

☆MGM映画「クレイジー・ジャンボリー」(Get Yourself A College Girl)について
いかにもアメリカ映画らしい、学生達のヴァカンス映画で、出演する俳優は、マリー・アン・モブレー、チャッド・エヴェレット、ナンシー・シナトラといった若手のピチピチしたところで、ゲスト・スターとして数々の楽しい音楽を聞かせてくれるのは、イギリス生まれのロック・グループ“The Animals”や“The Dave Clark Five”、スタン・ゲッツとアストラッド・ジルベルト、それにジミー・シミス・トリオ等で、賑やかなミュージック・パレードとなっています。
 日本での公開が待たれる、ポピュラー音楽ファン、ジャズ・ファン待望の映画です。
☆スタン・ゲッツとアストラッド・ジルベルト
 ゲッツとジルベルトのコンビ始めてのLPが昨年'64年に発売されたちまち全米のLPのベスト・セラーになったのは、我々の耳にまだ新しいところですが、ビルボード誌より分派して作られた「ミュージック・ビジネス誌」という音楽雑誌によって、'64年度の最優秀ジャズLPとして「ゲッツ/ジルベルト」(V6-8545)が選ばれ、更にスタン・ゲッツが最も活躍したジャズ・メンに選ばれたのを御存知の方はあまりいないのではないでしょうか。
 ボサ・ノヴァというブラジルのリズムが世界的に流行し、特にジャズという音楽ジャンルにおいて多く採り入れられた事はジャズの歴史の中の大きな出来事として覚えられてよい事ですが、そのボサ・ノヴァ・ジャズの動きの中において、最も目覚しい活躍をしたのはスタン・ゲッツだと云えるでしょう。
 あの「ジャズ・サンバ」(V6-8432)という名盤は当時、モダン・ジャズの数々のLPの中で、ひときわ爽快な息吹きを感じさせる、快心のアルバムだったのです。
 ゲッツはこの一枚のLPによって、長い間の渡欧によるブランクを一遍に取り返す程の見事なカム・バックをなしとげたのです。ゲッツ独特の透明な、美しい歌心が南米のリズムではあるが非常にソフィスティケイトされたボサ・ノヴァというリズムの中に、実に美しく開花したのです。
 よく考えてみるとゲッツとボサ・ノヴァは始めからひとつに結びつきそうな共通点をもっているようにさえ感じられます。
 さて、ここでゲッツと新しいコンビをなすアストラッド・ジルベルトという女性歌手について少しふれておきましょう。
 '64年の夏の事でした。サンフランシスコにある「ジャズ・ワークショップ」というジャズ・クラブで、スタン・ゲッツがエキサイティングなアド・リブを吹きつづけていました。やがて、一曲終るとゲッツが自ら「今日は新しいブラジルの歌手アストラッド・ジルベルトを御紹介しましょう」とアナウンスしたものです。現われたのは、ブルーの簡単なドレスを着た、目の大きい、やせた、16才位にみえる少女でした。(ところが実際は、24才なのでした)
 そして、彼女の大ヒットである「イパネマの娘」のメロディーが流れだしたものです。ソフトで、ハスキーで、実にムードのある歌声に、バックのリズムと、スタン・ゲッツのテナー・サックスのオブリガートにささえられて、聴衆をすっかり魅了してしまいました。そしてこの歌は、全米に流行し始めることになったのです。
 実際に彼女はイパネマから来たのですが、この曲は彼女自身の事を歌っているのではないとの事です。(作曲は「ヂザフィナード」の作者でもあるカルロス・ジョビム)
 やがてこの曲は、シングル盤にカッティングされて全米のティーンエイジャーの間にも評判になりました。いまや、アストラッドは“イパネマの娘”としてアメリカだけでなく、全世界に有名になってしまいました。「ゲッツ/ジルベルト」のLPの後に、今年('65年)に入ってその続篇である「ゲッツ・オー・ゴー・ゴー」のLPもベスト・セラーになり、今後は新しく彼女自身をフィーチュアしたLPも発売されるという事態をみても、その人気の本当であることが知られます。
 それにもまして、我々ファンにとって嬉しいのは、MGM映画「クレイジー・ジャンボリー」にゲッツと一緒に出演しているということです。彼女の愛らしい姿と声とがもうじき見られるのですから。
 それに、'64年に中止になった来日も、'65年の秋には実現しそうなニュースも入っていますから、映画だけでなく、本物の“イパネマの娘”が聞けることになりそうです。

1965年6月23日、ロス・アンジェレスで、61歳のヴィンセントゥ・ミネリ(Vincente Minnelli、1903年2月28日~1986年7月25日)監督、32歳のエリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor、1932年2月27日~2011年3月23日、39歳のリチャードゥ・バートゥン(Richard Burton、1925年11月10日 ~1984年8月5日)、40歳のイーヴァ・マリー・セイントゥ(Eva Marie Saint、1924年7月4日~)主演の総天然色の映画劇『イソシギ』The Sandpiper(117分)が公開された。
撮影は1964年9月7日~12月7日におこなわれた。
主題曲の「あなたのほほえみの影」The Shadow of Your Smileを39歳のジョニー・マンデル(Johnny Mandel、1925年11月23日~2020年6月29日)が作曲した。

1965年7月7日、東京サンケイホールで、38歳のスタン・ゲッツ、22歳のゲリー・バートン、24歳のスティーブ・スワロー(Steve Swallow、1940年10月4日~)、36歳のラリー・バンカー(Larry Bunker、1928年11月4日~2005年3月8日)(ドラムス)、30歳のカルロス・リラ(Carlos Lyra、1933年5月11日~2023年12月16日)(ギター、ヴォーカル)のスタン・ゲッツ五重奏団(Stan Getz Quintet)が公演をおこなった。

1965年8月、日本グラモフォンが、スタン・ゲッツ来日記念盤、スタン・ゲッツ(テナー・サックス)他『ジャズ・サンバ』Jazz Sambaの12インチLP盤(SMV-1020、1,800円)を発売した。

1965年8月、日本グラモフォンが、スタン・ゲッツ来日記念盤、スタン・ゲッツ(テナー・サックス)、ジョアン・ジルベルト(ギター・ヴォカル)他『ゲッツ/ジルベルト』Getz/Gilbertoの8曲入り12インチLP盤(SMV-1023、1,800円)を発売した。

1965年8月21日、日比谷スカラ座で、映画劇『いそしぎ』The Sandpiperの日本語字幕スーパー版が公開された。

1965年9月1日、第26回ヴェネーツィア国際映画芸術祭で、47歳のアラン・サーガル(Alan Surgal、1916年11月12日~2017年1月3日)脚本、41歳のアーサー・ペン(Arthur Penn、 1922年9月27日~2010年9月28日)監督、26歳のウォーレン・ベイティ(Warren Beatty、1937年3月30日~)主演の映画劇『ミッキー・ワン』Mickey One(93分)が公開された。
撮影は1964年3月~5月にシカーゴでおこなわれた。
撮影監督は40歳のジスレイヌ・クロケ(Ghislain Cloquet、1924年4月18日~1981年11月2日)だ。

ディトゥロイトゥの陽気な遊び人の漫談家(ベイティ)は、ルディ・ラップ(Rudy Lapp)(フランショウ・トウン、Franchot Tone、1905年2月27日~1968年9月18日)が経営するナイトクラブ「ラッププランドゥ(Lapland」と契約している人気者だ。
だが、暴力団に違法賭博の負債を作った彼は、ある晩、暴力団の報復を逃れるため、衝動的にディトゥロイトゥを去ることにし、身分証を焼き捨てる。
その後、浮浪者となった彼は列車に無賃乗車し、シカーゴにたどり着く。

彼は表の窓に聖書『イェルミアウ(Jeremiah)』第37章17節「主から言葉があったのか(Is There Any Word From The Lord)」の標語が貼り出された「新生活伝道所(New Life Mission)」という慈善団体の事務所に入り、福音伝道師(ノーマン・ゴットゥシャルク、Norman Gottschalk、1905年10月9日~1979年9月)とその夫人から食事を与えてもらう。伝道師は食事をとる漫談家の前で聖書を読み上げる。

イェルミアウ[古代イェフディ人の神の言葉を人に伝える預言者]が地下牢に入った時、獄房に入った時、イェルミアウが何日もそこに留まった時、
ゼドゥキア(Zedekiah)[イェフダ王国の最後の王]は自分の家でひそかに彼に尋ねて言った、「主から何か言葉はあったのか?」
イェルミアウは言った。(ありました。イェルミアウは言った。あなたはバビロンの王の手に引き渡されます)
When Jeremiah was entered into the dungeon, and into the cabins, and Jeremiah had remained there many days
and Zedekiah asked him secretly in his house, and said, Is there any word from the LORD?
And Jeremiah said,(There is: for, said he, thous shalt be delivered into the hand of the king ob Babylon. )

その直後、意識をなくした東欧系移民の男ミクローシュ(Miklos)の身ぐるみをはがした追いはぎ団の黒人が捨てたミクローシュの社会保障カードを譲り受けた漫談家は、人材派遣所で、軽食堂食堂のゴミ処理の仕事を紹介され、食堂の支配人に「ミッキー・ワン(Mickey One)の名で呼ばれる。
その後、ミッキーは芸能代理人のジョージ・バースン(George Berson)(テディ・ハートゥ、Teddy Hart、1897年9月25日~1971年2月17日)の事務所で仕事を貰い、場末のナイトクラブで漫談家の仕事を再開する。

ある日、ジョージは高級クラブ「ザナドゥ(Xanadu)」の支配人ラリー・フライアー(Larry Fryer)(ジェフ・コーリー、Jeff Corey、1914年8月10日~2002年8月16日)と共同支配人のエドゥ・キャスル(Ed Castle)(ハードゥ・ハットゥフィールドゥ、Hurd Hatfield、1917年12月7日~1998年12月26日)にミッキーを売り込む。
ラリーとキャッスルはミッキーをと高給で契約しようとするが、暴力団につけ狙われているという強迫観念にとりつかれたミッキーは断る。

ミッキーが帰宅すると、女家主が新たな下宿人ジェニー・ドゥレイトゥン(Jenny Drayton)(アレクサンドゥラ・スチュワルトゥ、Alexandra Stewart、1939年6月10日~)を彼の部屋に入れていた。
持ち金に余裕のない彼女は、ミッキーと部屋を半分ずつ使うことにする。
ミッキーは彼女に、4年半も逃げ回っていることを打ち明ける。

強迫観念に苦しみ続けたミッキーは、最後に、エドゥから頼りにしていたルディが死んだと聞かされたあと、覚悟を決めて「ザナドゥ」の舞台に立つ。

59歳の藤原釜足(1905年1月15日~1985年12月21日)が、ミッキーが何度も顔を合わせる、一言もせりふのない、廃品で芸術品を作る「芸術家」の役で出ている。

1965年10月、日本グラモフォンが、「ジャズ・ヴォーカル名盤シリーズ」第4集、アストラッド・ジルベルト(歌)『ボサ・ノヴァの女王』The Astrud Gilberto Albumの11曲入りの12インチLP盤(SMV-1027、1,800円)を発売した。
 解説は33歳の中村とうよう(1932年7月17日~ 2011年7月21日)だ。

1965年10月、日本グラモフォンが、MGM映画「いそしぎ」主題歌アストラッド・ジルベルト(歌)、「いそしぎ」The Shadow Of Your Smile(2分52秒)、「オー・ガンソ」O Ganso(2分39秒)のシングル盤(DV-1006、370円)を発売した。
解説は32歳の岩浪洋三だ。

 64年から65年にかけて、もっとも話題をさらった女性歌手はアストラッド・ジルベルトとバーブラ・ストライザンドでしょう。
 ジルベルトの方は「イパネマの娘」を歌って一躍スターダムにのし上りましたが、彼女の歌の魅力はまずその素人っぽさにあります。彼女は有名なブラジルの歌手、ギタリスト、作曲家であるジョアン・ジョルベルトの夫人であり、「イパネマの娘」でデビューするまでは、台所で鼻歌しか歌ったことがなかったそうです。

1965年10月23日、浅草東映パレス、新宿東映パレス、渋谷東映パレス、上野東急、池袋文芸坐、吉祥寺ムサシノ、川崎名画座、横浜日活シネマで、映画劇『犯罪組織(シンジケート)』The Hanged Manの日本語字幕スーパー版と、レン・デイトゥン(Len Deighton、 1929年2月18日~)原作、31歳のスィドゥニ・J・フューリー(Sidney J. Furie、1933年2月28日~)監督、31歳のマイクル・ケイン(Michael Caine、1933年3月14日~)主演の映画劇『国際諜報局』The Ipcress File(109分。初公開:1965年3月18日)の日本語字幕スーパー版の2本立てが公開された。

1965年12月、日本グラモフォンが、アストラッド・ジルベルト(歌)、アントニオ・カルロス・ジョビン(ギター)「おいしい水」Agua De Beber(2分16秒)、「瞑想」Meditation(2分39秒)のシングル盤(DV-1008、370円)を発売した。

1966年1月、アメリカ連合国のMGM Recordsが、38歳のスタン・ゲッツのアルバム『ミッキー・ワン』Mickey Oneのモノラル盤(E-4312)とステレオ盤(SE-4312)のLP盤を発売した。
作曲・編曲・指揮は50歳のエディ・ソーター(Eddie Sauter、1914年12月2日~1981年4月21日)だ。
録音は1965年4月~6月におこなわれた。

1966年3月、 日本グラモフォンが、アントニオ・カルロス・ジョビン(ピアノ)『イパネマの娘』The Composer Of Desafinado, Playsの12曲入り12インチLP盤(SMV-1049、1,800円)を発売した。
 解説は33歳の中村とうようだ。

1966年7月、日本グラモフォンが、エディー・ソーター作曲・編曲・指揮、スタン・ゲッツ(ts)『ミッキー・ワン』同名映画オリジナル・サウンド・トラック Mickey Oneのステレオ盤のLP盤(SMM-1095、1,800円)を発売した。

1967年7月1日、第1次資本自由化が施行された。
資本自由化の対象となる業種にレコード産業も含まれていた。

1968年1月13日、新宿厚生年金ホールで、27歳のアストラッド・ジルベルトの公演がおこなわれた。
伴奏はボサノバ・ファイブだった。

CBS・ソニーの時代

1968年3月11日、アメリカ連合国の企業の音楽市場の日本国での拡大を推進するため、初のアメリカ連合国と日本国の双方50%出資のレコード製造・販売会社「CBS・ソニーレコード株式会社」が設立された。

1968年8月21日、CBSソニーの第1回新譜として、ハイドン(Franz Joseph Haydn、1732年3月31日~1809年5月31日)、オラトリオ『天地創造』Die Schöpfungの12インチLP盤2枚組(SONC 10003~4、4,000円)が発売された。

ジャケットには、ヴァティカーノのスィスティーナ礼拝堂(Cappella Sistina)の天井に描かれたミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti、1475年3月6日~1564年2月18日)の天井画「アダムの創造(Creazione di Adamo)」の神の右手と生命を与えられるアダムの左手の部分が用いられた。

サイモン&ガーファンクル(Simon & Garfunkel)のアルバム『卒業』The Graduateの12曲入り12インチLP盤(SONX-60001、2,100円)が発売された。解説は柳生すみまろ(1939年~2010年3月11日)だ。

1968年8月、東芝音楽工業が、「ジャズ・ヴォーカル名盤シリーズ」、『チェット・ベイカー・シングス』Chet Baker Singsの12曲入りの12インチLP盤(WP-8386、2,000円)を発売した。

いとしのバレンタイン」My Funny Valentine、「ザット・オールド・フィーリング」That Old Feeling、「ライク・サムワン・イン・ラヴ」Like Someone In Love、「マイ・バディー」My Buddy、「イッツ・オールウェイズ・ユー」It's Always You、「やさしき伴侶を」Someone to Watch Over Me、「バット・ノット・フォー・ミー」But Not For Me、「ルック・フォー・ザ・シルバー・ライニング」Look For The Silver Lining、「あなたが居なくても」I Get Along Without You Very Well、「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー」I Fall In Love Too Easily、「ザ・スリル・イズ・ゴーン」The Thrill Is Gone、「あなたは二人とない」There Will Never Be Another You

解説は35歳の岩浪洋三だ。

 あるアメリカのジャズ評論家が、「チェット・ベイカーのトランペットは忘れ去られることがあっても、彼のヴォーカルは永遠に残るだろう」といっています。私もこの説に大賛成です。彼のマイルス・デヴィスに影響されたリリカルなクール・トランペットも悪くありませんが、彼の中性的ともいうべきヴォーカルは、ユニークで、今日いうモノ・セックス的なムードを早くから打ち出していたといえるかもしれません。
 彼の歌は退廃的でニヒリスティックなムードをもつ反面、やさしさと素直な気持がこめられていて、きき手の心にやさしく語りかけてきます。あまり抑揚をつけず、つぶやくように、のっぺりと歌いながらそこにいヽ知れぬ人間的感情がこもっていて、きき手はヒューマニティを感じるのです。技巧にたけ、あまりに器楽的になったり、機械的になったりしがちな現代のヴォーカルの中では、かえって素人くさい、何の気取りもないチェット・ベイカーの歌が不思議に人間的魅力にあふれてきこえることもあるのです。近年ボサ・ノヴァの方で人気を出しているアストラッド・ジルベルトは明らかにチェット・ベイカー・スタイルの女性版的なところがあるといっていいでしょう」

 ところで、チェットの帰米を記念して再発売された「チェット・ベイカー・シングス」はオリジナル盤とちがってステレオになっていました。しかもよくきくとギターが鳴っているではありませんか。これは不思議だなとおもい調べたところ、あとからジョー・パスのギターを加わえてステレオ化したことがわかりました。だから、これは人工ステレオといってもちょっと普通の意味とはちがいます。

1973年2月14日、為替相場(Exchange Rate)が変動相場制(floating exchange rate system)に移行した。

東芝EMIの時代

1973年10月1日、レコード製造・販売会社の「東芝音楽工業」に連合王国のEMIが出資し、「東芝EMI」が設立された。

1979年10月2日、キングレコードが「パシフィック・ジャズ・シリーズ1800シリーズ」第3期のLP盤全10枚を完全限定盤として発売した。

チェット・ベイカー・シングス』Chet Baker Singsの14曲入りの12インチLP盤(GXF-3131(M)、1,800円)が発売された。
当初はオリジナル・マスターでの発売が企画されたが、マスター・テープの所在が不明で、やむなく1964年盤のマスターを使用した。

ザット・オールド・フィーリング」That Old Feeling、「イッツ・オールウェイズ・ユー」It's Always You、「ライク・サムワン・イン・ラヴ」Like Someone In Love、「マイ・アイディアル」My Ideal、「アイヴ・ネヴァー・ビーン・イン・ラヴ・ビフォー」I've Never Been In Love Before、「マイ・バディ」My Buddy、「バット・ノット・フォー・ミー」But Not For Me、「タイム・アフター・タイム」Time After Time、「アイ・ゲット・アロング・ウィズアウト・ユー」I Get Along Without You Very Well、 「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」My Funny Valentine、「貴方無しでは」There Will Never Be Another You「スリル・イズ・ゴーン」The Thrill Is Gone、「アイ・フォール・イン・ラヴ」I Fall In Love Too Easily、「ルック・フォー・ザ・シルヴァー・ライニング」Look For The Silver Lining

解説は46歳の岩浪洋三だ。

 「チェット・ベイカーのいちばん好きなレコードは?」ときかれれば、即座に「チェット・ベイカー・シングス」と答える。それほど彼の歌はいちどきくと心にこびりついてはなれない。しみじみとした哀愁感と彼の人間性がさりげない歌い方を通して伝わってくるからだ。「彼のヴォーカルだけは間違いなくジャズ史に残るだろう」といったアメリカのジャズ評論家がいたが、ぼくもその説には賛成である。
 彼のヴォーカルはホモ・セクシュアルなところがあり、――実際ホモ容疑でつかまったことがある――ニヒリスティックで退廃的なところがある。彼はイタリアで麻薬所持のため逮捕されたことがある――そのレイジーでシンプルな歌はこの上なくユニークである。
 しかし、ジャズにとってレイジーであるというのは重要なことなのだ。伝統的な黒人のジャズにはみんなこれがあった。エリントン楽団もベシー楽団もレイジーな演奏をみせる。したがってチェット・ベイカーの歌は素人っぽい反面、この上なくジャジーである。それはジャック・ティーガーデンやホーギー・カーマイケル、あるいはファッツ・ウォーラーの〈トゥ・スリーピー・ピープル〉などに通ずるレイジー・ヴォーカルに通ずるものでもあり、チェットの歌にユニークなジャズ・ヴォーカルのあり方をみることができるのである。
 また、ボサ・ノヴァはウエスト・コースト・ジャズの影響を受けているが、ボサ・ノヴァのジョアン・ジルベルトなどの素人っぽいレイジーな歌にチェット・ベイカーの影響を指摘することもできよう。アストラッド・ジルベルトだったか、ジョアンだったかが、チェットの歌が好きだという発言を読んだことがある。
 チェット・ベイイカーはウエスト・コースト・ジャズの名トランペッターとして人気を呼び、'50年代のはじめにはマイルスよりも人気があったが、彼はジェリー・マリガン・カルテットの一員として注目され、その後独立して自分のコンボをもち、リリカルで甘美なトランペットと並行して歌も歌うようになった。「チェット・ベイカー・シングス」と「チェット・ベイカー・シングス&プレイズ」は彼の代表作のヴォーカル・アルバムだが、とくに前者はその決定盤といえる。彼のトランペットと歌は甘美でロマンがあり、哀感にみちているので女性からは圧倒的な支持を得た。
 しかし、麻薬に溺れ、'50年代にアメリカでも一時逮捕されて入獄っせられたことがあり、出獄後アメリカにいや気がさして59年にはイタリアに渡り、イタリアでも何枚かレコーディングしたが、'64年には5年ぶりにアメリカに帰ってきた。このとき彼の帰国を記念し、「チェット・ベイカー・シングス」が再発売されたが、ジョー・パスのギターを加わえてステレオ化されたので、一部のファンからはオリジナルの方がいいのにと反感を買った。しかしダウンビート誌では5つ星をもらって、彼の歌も市民権を得たのである。

1981年3月5日、キングレコードが、「パシフィック・ジャズ傑作選」、『チェット・ベイカー・シングス』Chet Baker Singsのステレオ盤の12インチLP盤(K23P-6702、2,300円)を発売した。

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