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日本近現代文学9作品 | 読書感想

授業で扱われた日本近現代文学のうち、青空文庫で読める9作品を、感想とともに簡単にまとめてみました。
有名どころでどれも短時間で読めるものなので、気になった作品や懐かしい作品があったらぜひ読んでみてください〜!

二葉亭四迷『あひびき』

明治21年(1888)発表。
ロシアのツルゲーネフの狩猟日記の一遍を逐語訳(文の一語一語を忠実にたどった訳)したもの。
秋のある日、主人公は白樺林の中で可憐な農夫の娘の最後のあいびきを目撃し、彼女の姿が鮮明に焼き付きます。

ロシア語の原文の音調を再現するよう、句読点まで計算されているとのこと。読み慣れない文体ではありますが、リズム感や徹底した主観表現がおもしろい作品です。

印刷様式や本屋の形態が変化し始めた年代を象徴するような、伝統や古典からの脱却を感じる訳文。翻訳をやりたくなります。

「逢われるよ、心配せんでも。さよう、来年――でなければさらいねんだ。旦那は彼得堡(ペテルブルグ)で役にでも就きたいようすだ」、トすこし鼻声で気のなさそうに言ッて「ガ事に寄ると外国へ往くかもしれん」。

菊池寛『出世』

大正9年(1923年)発表。
主人公・譲吉は久しぶりに図書館に行き、翻訳をしていた学生生活の思い出をふりかえる。

翻訳の話も面白いし(また翻訳に興味が出てしまう)、貧しさから見えるほかの人の様子も鮮烈。主人公の高いプライドが垣間見えるのも一興です。読後感がすっきりとした作品。

明治政府が国策として推し進めた識字教育で、国民の読み書きの能力が飛躍的に向上したこの時代。図書館が持つ意味合いを考えさせられます。

人生のどんな隅にも、どんなつまらなそうな境遇にも、やっぱり望みはあるのだ。そう思うと、譲吉は世の中というものが、今まで考えていたほど暗い陰惨なところではないように思われた。

国木田独歩『窮死』

昭和14年(1939)発表。
身寄りのない、下級労働者の主人公・文公は、肺を病みその日の食事も宿も、ままならない。知り合いの元に身をよせてつかの間の安息を得るものの、先にあるのは窮迫した死。

きっついですね…。
人は優しい、親切でその瞬間腹は満ちる、でもどうにもならないことはどうにもならない。この時代の鉄道や郵便の発達が分かりつつ、貧困のなか孤立していく労働者の運命の残酷さを感じる悲惨小説。

「アヽいっそ死んでしまいたいなア」と思った。この時、悪寒が身うちに行きわたって、ぶるぶるッとふるえた、そして続けざまに苦しい咳せきをしてむせび入った。

宮本百合子『図書館』

昭和22年(1947)発表。
宮本百合子の、戦後の上野図書館についての随筆。婦人閲覧室が生んだ友情など、歴史的背景が滲む現代人の必読書。

海外経験が豊富な著者は、さまざまな作品を発表し、スパイ容疑にかけられ投獄されたり、社会運動に執筆で取り組んだりした先進的な女性でした。
男女間の差別から発生した婦人閲覧室の存在は、恥ずかしながら初めて知るものでした。関東大震災や戦争を経て変わっていく風景や人々の価値観、文化を知ることができる作品です。

この前に来たときと、きょうとの間に七年の月日が経過している。間に戦争のはさまった七年であった。あの司書はいるだろうか。左へ右へ司書の顔を見くらべた。それらしい人は見当らない。

田山花袋『少女病』

昭和44年(1969)発表。
37才の主人公・杉田は、通勤電車で見かけるとある少女に対して妄想を募らせる。周囲に揶揄されながらも、妻子より彼女への想いが抑えきれない彼は、少女に見とれているうちに…。

病んだ少女の話だと思い込んで読んだのですべて裏切られました。変態小説ともいわれる本作は日本での自然主義的な表現がはっきりとしていて、手に取るようにその場の空気感が読み取れます。

当時、電車内の風紀が乱れるという理由で誕生した婦人専用車など、その時代の女学生のイメージや社会的な扱われ方について色々と考えてしまう作品。

美しい眼、美しい手、美しい髪、どうして俗悪なこの世の中に、こんなきれいな娘がいるかとすぐ思った。誰の細君になるのだろう、誰の腕に巻かれるのであろうと思うと、たまらなく口惜しく情けなくなってその結婚の日はいつだか知らぬが、その日は呪のろうべき日だと思った。

横光利一『機械』

昭和5年(1930)発表。
ネームプレートの製作所で働く主人公。そこで働く無邪気な主人や以前から働いている軽部などの交流や仕事の風景を、「私」以外の四人称の「私」の視点を用いた実験小説。

句読点や段落がほとんどなくて目が滑り、読みにくいなあというのが正直な印象でした。あんまり飲み込めなかった部分もありますが、詳細な表現や化学的な話は内的独白の手法をもって、当時の発展しつつあった科学利用を感じる作品でした。

誰かもう私に代って私を審いてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから。

太宰治『女生徒』

昭和13年(1939)発表。
女性読者の有明淑(当時19歳)から送付された日記をもとに、14歳の女生徒が朝起床してから夜就寝するまでの一日を主人公の独白体で綴っている。

独特な文章なのにまったく不快でも読みにくくもない、さらさらと流れていく日常の独白。もとの日記からあまり変えられていない内容・表現だったことに驚きました。
現代と変わらぬ、迷い傷つき悩むひとりの少女の姿がありありと浮かびます。

美しく生きたいと思います。

中島敦『文字禍』

昭和17年(1942)発表。
アッシリアの碩学博士が、文字の霊が人間に及ぼす災いについて研究し、王に進言するものの認められず、最後には文字の霊の呪いによって書物(粘土板)の下敷きになり…。

概念や感情を文字としてきたが、逆に人間は文字でしかそれらを知覚できなくなってしまったという。文字にならないものの切り捨ては、考えさせられるものでした。
ディストピア小説でも、言語についての言及は必ずといっていいほどありました。人間と言語は切り離せないものですね。

文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。
アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、闇の中を跳梁するリル、その雌のリリツ、疫病をふり撒まくナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者ラバス等など、数知れぬ悪霊共がアッシリヤの空に充みち満ちている。

芥川龍之介『舞踏会』

大正9年(1920)発表。
明子は鹿鳴館の舞踏会へ赴き、ある仏蘭西人の海軍将校に踊りを申し込まれる。そこでふたりワルツを踊った思い出を語る、老夫人となった彼女。相手が高名な作家・ロティだと伝える青年作家に、明子は不思議そうな顔をする。

鹿鳴館の情景が浮かぶ美しい小説。
アイスクリイムや花火の儚さゆえにその一瞬が刻み込まれる様子は余韻が残る。老夫人となった明子の、過去の相手の男性が有名な作家であること自体に意味を見出していない態度も素敵。

ピエール・ロティの「江戸の舞踏会」に触発されたとのことで、こちらも読まなくてはと思いました。

仏蘭西の海軍将校は、明子と食卓の一つへ行つて、一しよにアイスクリイムの匙を取つた。彼女はその間も相手の眼が、折々彼女の手や髪や水色のリボンを掛けた頸へ注がれてゐるのに気がついた。

以上9作品、いかがだったでしょうか?
私は「舞踏会」が大好きです、みなさんはどの作品がお気に入りでしょうか。

表現そのものの素晴らしさとともに、当時の社会背景や人々の価値観、常識も垣間見える作品たち。
物語の先にある、当時の景色や思考までも覗いてみたくなるような小説を、いま一度読んでみませんか?

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