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家事労働(2)-愛という名の罠

(続き)

では、商品化が可能であり、生活に必要不可欠である家事労働が、なぜ男性にとっての「仕事」と同等の扱いを受けることが出来ないのだろうか?

女性が家の中で行っている活動がどんなイデオロギー的装飾によって表現されているにせよ、女性は彼女がそれをやらないならば誰かによって代行されるほかないような「労働」をたしかに行っている。主婦はただ、それを「愛」の名の下に行っているのである。(上野千鶴子『家父長制と資本制 –マルクス主義フェミニズムの地平』P50 岩波書店、2009年)

【公的領域と私的領域】
それは家事労働が、”仕事の場”とされる「公的領域」とは別の場所にある”家族”という「私的領域」の中に存在する労働で、貨幣のやり取りによってでなく、前のキーワードに挙げた「愛」や、育児で言えば「母性」といった観念によって成り立っているものだからである。

「男はソト、女はウチ」のソトとウチのことだ。
家事は「愛するあなたが心おきなくソトで働くことが出来る様に、ウチのことは私が頑張ります。」という気持ち。育児は「愛する我が子のために、この身を捧げます。」という気持ちの現れである。その報酬は「妻を愛すること。」「母を愛すること。」であると考えられているのだ。

「愛する妻のためにソトで身を粉にして働いてきているのだから、ウチの事はよろしくな。」という論理が生まれ、「仕事と家事は別物」とされるのだ。

そしてそこへ「カネを稼ぐことがエライ」という労働観が加われば、家事労働の軽視が完成する。


【主婦と女中】
しかしこれは歴史的に見れば非常に特異的な考え方であって、事実、高度経済成長期以前の日本で「女中」という家事労働によってカネを得る職業が存在したことは、近代文学からもわかることだ。(歴史の証明に文学はあまり適さないと、史学科で教わりましたが…笑)

なぜ女中という職業が多く存在したかと言えば、女中を雇うためのコストに比べて、妻がそれ以外の労働によって得る利益の方がはるかに大きかったから。というだけの理由だ。

昨今のワーキングマザーの「保育園に子どもを預けてソトで働き、家事代行業者に食事の作り置きや掃除、洗濯などを依頼し生活を回す。」という生活スタイルは、高度経済成長期以前のスタイルに戻っているだけであり、何もおかしなことでは無いと思う。
そうすることで得られる利益が大きのであれば「無駄遣いしている」などと考える必要は無いが、一方で、時短勤務によって収入が減ってしまうなど、それを超える利益が得られず、結局「仕事」「家事」「育児」に追われる女性が大半であるという現実がある。この話はまた別の問題につながるので、置いておく。


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以上、これまでが家事労働についての本当にザックリとした説明だ。

前置きが長くなったが、この上でどのように"今"を考え、行動すれば、"楽に"、"気持ちの良い"生活を送ることができるか?
これについても、キーワードに沿って私の考えを述べてゆく。


【仕事、家事、育児】
子どもを持つ女性は仕事、家事、育児を、子どもを持たない女性は仕事、家事を。対して男性は仕事のみを担うよう期待されて作られているのが、今の日本社会だと考える。

子どもを持たない男女が社会から与えられている「労働」の比は1:2であるが、これは男性と同じように4年生大学を卒業し、新卒から働く女性が増えたことによって、両者の家事についての共担意識が高まり、この比はかなり均等に近いものになってきていると思う。
(もしそうでない場合は、是非「家事労働」の成り立ちを踏まえ、共担すべきであることをパートナー、及び自分自身へ、訴えてほしい。)

しかし、そこへ育児が加わると、このバランスが崩れることが多いように見える。

はじめに述べた「育休中だから…」「今は仕事をしていないし…」という状態だ。


(続く)



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