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「人材」「人財」「開発」「育成」全部苦手だ

自己紹介の度に疼く違和感

ラーニングを扱うセミナーにはできるだけ参加するようにしている。というのはこんな事情による。

  • 自分自身が最も学ぶ姿勢を持ってないと、ラーニングを扱っていく資格がない気がする(紺屋の白袴的な、医者の不養生的な、教師の不勉強的な)

  • でも通常、会社では間接部門自身の研修に大きく投資されることはないので、社内で学ぶ機会はそう多くない(間接部門全体対象の学習機会があるケースはあるけれど、その中でもラーニングに特化した継続的学習機会が提供されている会社はほとんどないのでは)

  • 以前は社外のセミナーというと移動時間が大変だったり、知らない人に囲まれて緊張したり、懇親会とセットになっててちょっと億劫だったりしていたけど、近年は短時間のリモートセミナーが当たり前になったので参加しやすくなった

  • 開催する側も会場を押さえたりする必要もなくほとんどコストを掛けずに開催できるようになった結果、無料で充実した情報を得られる機会が増えた

  • 内容を見極めれば、結構先端の情報収集ができるセミナーもある。リモート開催/参加のハードルが下がった結果としてニッチ領域のセミナーが成立するようになったのかも

  • 他社のラーニング担当者と情報交換する機会もあり、理論だけでなく現実に起こる多くの悩ましい事情とそれへの対処の話が聞ける。ラーニング領域は「Executeできてなんぼ」なので、現実との取っ組み合いは欠かせないから、この実践知のストックが増やせるのはとても有益

こんな理由により社外セミナーへのアンテナは結構高く張っている。HR Proとかは特に情報収集に有益だけれど、他にも良い研修会社のメールマガジンに登録したり、SNSでラーニング系のネットワークから流れてくる情報にもいつも助けられている。

で、参加はするわけなのだけれど、そこではたまにグループワークがあったりして、自己紹介する機会も多い。そこで私はだいたい「人財開発、組織開発を担当しています」という説明をする。でも、そう言うのが実は好きじゃない。「人財」も「人材」も「開発」も好きじゃない。「教育担当」とか「研修担当」とか「育成担当」とも言いたくない。しかしそれに変わる言葉、かつ誰に対してもわかりやすく伝わる言葉がまだ見つかってないのでやむを得ず、やや口ごもりながらも私は繰り返す。「人財開発、組織開発を担当しています」。

「材」も「財」も嫌いな理由

嘗ての同僚の一人で、喩えがうまい人がいた。彼女も人事の一員ではあったが、人事による社員の扱い方を評して「人を野菜のように扱っているように思うときがある」と言っていて、なるほど、と思わされた。

つまりそういうことだ。私は人を人として接したい。労働力とかタレントとかいう一面を切り取るのではなくて、全人格がワンセットになった「人」のままで接したい。だから、「人材」(Human Resource)も「人財」(Human Capital)も、人を経済論理の型に無理やり押し込める歪な器に感じている。「人は大切なので材料じゃなくて資産として扱っています」という想いで「人財」という言葉が生まれたのだろうけど、「材」だって「財」だって、モノ扱いとしては同じことだ。

財務部はお金を、資材部は資材を「モノ」として扱う。それにはなんの異議もない。なぜならそれらは本質的に「モノ」なのだから。だけど、人は「モノ」じゃない。一人ひとりが複雑なシステムであり、またそのシステムは「組織」という集団になると相互に影響しあって更に複雑なメタシステムを形成する。だから、人をモノとして一面だけを切り出して扱おうとすると、「桃太郎とオニ太郎」の様に、その外側に関連し合う要素を見逃してしまい、システムを壊してしまいかねない。「手術は成功した。しかし患者の命は失われた」なんて茶番は許されない。システムはシステムとして扱わないと歪んでいく。

「教育」「育成」「研修」「開発」が前提とするもの

加えてその後ろに続く言葉も苦手なのだ。「教育」も「育成」も「研修」も「開発」も、その言葉の裏側には「分かっていない相手に、新しい知識を提供し、更に役に立つ存在にする」という前提が存在する。さらに言えば、その行為の主体(「教師」であったり「講師」であったり「登壇者」であったり、、、)は、教える相手より「上」の立場であることを前提としている。

「ご進講」なんて言葉が使われることもある。例えばお客様や目上の方に対して何かを伝えなければならないときの謙譲語として。でもこれだって一見謙虚な表現ではあれど、意味していることは一緒だ。「知っている人が、知らない人に、知識を伝える」。主役は常に「教える側」にある。

何かの講座など、限定された時間/空間の中で特定のテーマを題材にして行われる行為をそのように表現すること自体は否定しない。より知識がある熟達者が、まだ知識を身に着けていない相手に知識を伝えるという構造は事実そこで行われているし、それは正しく設計すれば有効に機能する。ただ、主役を「学ぶ側」において考えると、そこで語られる世界観はあまりに狭い。私は「教え方」にももちろん関心はあるけれど、それよりも「学び方」の方によりコミットしたい。そして「学び方」は「教え方」よりも遥かに広く深いと考える。

伝わらない自己紹介をするならば

私は自分の仕事にプライドとコミットメントをもっているけれど、こんな事情により、その肩書をほぼ全否定したくなるという居心地が悪い状態になってしまう。敢えて書き下した言葉で言うならば、本当はこの様に自己紹介したい。「人の学びを支援しています」「学びの場作りをしています」と。でも多分漠然としすぎていて、伝わらない。相手の脳内ではそれは「要するに研修部だな」「人財開発部だな」と変換されていることだろう。であれば結局同じことだ。

稀に、時間をかけて自己紹介できる機会もある。そういうときは結構こだわって話す。ほとんどここまで書いていたことを話したくなる。ただそれだと流石に長過ぎる。なんとか見つけた程よい落ち着き先は、独自の肩書を語ること。「私はLearning Organization Initiativeを担当しています」と。で、「なにそれ?」と相手の頭に浮かんでいる「??」を確認したら、かいつまんでその意図を説明する。そうすれば、正しく相手に届く説明ができる(気がする)。

できれば日本語で説明したい。簡潔にその意味が誤解なく伝わるような日本語の肩書を作って、それを広めてみたい。でもまだそれは見つかっていない。斯くしてさしあたりはLearning Organization Initiative, LOIと名乗ることにしている。

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