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祈りの先の1円

「思いを馳せる」という言葉だけで、何かをしたつもりになっている。

被災地に、戦争の犠牲者に、悲しい境遇にある人に、「思いを馳せる」。新聞やテレビでも、よく目にするこの言葉。
「思いを馳せる」。そう言って、僕は何か行動しただろうか。

今日は8月9日。
長崎に原爆が投下された日だ。
今日で79年になる。
イスラエルの招待見送りに関わる課題はあるが、大切なことは原爆で亡くなった全ての人々を慰霊し、弔うこと。
遠く、長崎の地に、79年前の過去に「思いを馳せる」。

昨日、8月8日。
日向灘を震源とするM7.0の地震があり、運用開始以来初めてとなる「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」が、気象庁によって発表された。
不安な状況の中、懸命に復旧に当たる方々に「思いを馳せる」。

そうやって、手を合わせて、祈る。
そうして僕は、何かをしたつもりでいる。
SNSなどのテクノロジーが発達し、家にいながらでも多くのことを知ることができる。クラウドファンディングなどで支援をすることもできる。
僕は、「思いを馳せ」ているのだろうか。ただ形だけの祈りではなかったか。手を合わせた先の「行動」に踏み出さずにいた僕の心は、どこの誰のために、祈っていたのだろうか。

コンビニの店頭で募金をする。
一見すると、気軽で何の意味もなさない行動は、ほんの僅かでも世界に貢献している。たとえ1円だとしても、確かな意味を持つ。
だが、祈り、手を合わせただけでは、世界は、そして未来は変わらないのだ。
祈りに意味がないと言っているのではない。
祈り、願い、その先の「行動」に繋げる。
たとえそれが店頭でする1円の募金でも、祈りの先にある「行動」すべてに意味がある。
祈りの先の「行動」。それこそが、真に「思いを馳せる」ことなのではないか。

祈りの先で「知ろうとする」こと。
祈りの先で「支えようとする」こと。
祈りの先で「寄り添おうとする」こと。

僕たちの生きる未来には、必ずまた不幸が訪れる。
災害、戦争、疫病。
予期せぬ悲しみの最中で、僕は、僕たちはきっと祈る。
そして、その先の「行動」に踏み出す。

「祈りを、祈りのままで終わらせないこと」
それが、未来のためにできることだ。
手を合わせた先の、1円。
検索し、知ること。
祈りを具現化する、その「行動」こそが、世界に「思いを馳せ」、変えてくれると、僕は信じる。


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