他力に頼りきれるからより良く生きられる。人生はご縁が10割。
浄土真宗 僧侶見習いの禅寺修行
私は、2023年6月3日に、浄土真宗 大谷本願寺派にて得度しました。
得度への準備としては一年間のオンラインでの初級学習を終えただけですが、得度式は新しい生き方を実践していく覚悟をする素晴らしい機会になりました。
またご縁があり、浄土真宗での得度式を迎える直前に、禅寺 臨済宗 圓福寺の大摂心に3泊でお世話になりました。宗派の垣根を超えて、快く受け入れて下さった圓福寺 老師とのご縁に心から感謝しています。
そして、老師からのご指導が深い自己探究の支えとなりました。お蔭様で、喜びや感謝に溢れた大きな発見と、更に深い自分の可能性への気づきを得ることができました。
言葉では表せない気づきを体得できた気がします。あえてエッセンスを言葉にするなら「他力に頼りきれるからより良く生きられる。」なのかと今は感じています。なかなか言葉では表しきれないですが、体験・体感したことを共有します。
圓福寺の大摂心
2023年5月31日(水)の夕方、剃髪をしてスッキリとした坊主頭で圓福寺の門をくぐりました。得度式の直前でもあり、老師からせっかくなら剃髪して臨まれてはとのアドバイスを頂いていたからです。
お寺に到着して直ぐに、翌朝から始まる大摂心に向けて、老師とお話する機会を頂きました。老師からは、大摂心の課題として「(一部の仏教関係者が自力だと揶揄する)禅寺での修行の中で他力を実感すること」を頂きました。絶対他力を教えとする浄土真宗で得度を予定していた私に、特別なご配慮を頂いた有難い課題でした。
その為に、修行中はどんな時も、ブッダ・ブッダ・ブッダと心の中で唱えなさいとご指示を頂きました。ブッダの「ブッー」で息を吸い、「ダー」で息を吐くようにとの事でした。ブッダ(仏陀)とはお釈迦様だけでなく、悟りを得られた全ての存在の事だとも教えて頂きました。
2023年6月1日から3日のお昼前まで大摂心に参加させて頂きました。圓福寺では、毎月月初の7日間のブートキャンプのような修行強化期間があり、一般の門徒さんにも参加を許されています。
大摂心期間中は、毎朝早朝3:30に起床です。僧堂で修行している約20名の雲水さんと仏間に集合して、ストレッチ体操から一日が始まります。その後は僧堂で坐禅、仏間での読経のお勤め、お墓での読経のお勤め、老師からの法話、僧堂に戻って坐禅、朝食、歩行禅、坐禅、昼食、昼食後は掃除などの作務の後は、多くの雲水の皆さんは托鉢、戻られて一緒に坐禅、歩行禅、夕食代わりの甘いお茶を頂く夜膳、その後また坐禅が21時まで続きました。
雲水さんたちは21時からも読経など修行を続けられます。雲水さん達にとっては、寝る間も惜しむ相当追い込む厳しい修行強化期間です。ただ、幸いゲストの私は昼食後は1時間ほど休憩時間もあり、仮眠もできました。また、21時の座禅の終了後は、部屋に戻りすぐに就寝できました。
素晴らしく贅沢で有難い時間と空間
大摂心の期間に、雲水さんに混じって老師との一対一のお時間を二度頂けました。雲水さんは与えられている公安への問答の機会ですが、ゲストである私は頂いた課題の進捗や感想、質疑応答をさせて頂ける時間でした。
老師との面談には、五体投地など規律正しい作法がありました。奥に控えられている普段とは違う老師の佇まいや、いらっしゃる空間の厳かな雰囲気に圧倒されました。
初日の夜の面談では、「素晴らしく贅沢で有難い時間と空間」への気づきを報告しました。禅寺で修行とはとても辛く厳しいとのイメージがありますが、私にとっては、誰かにやらされての修行ではありません。自分が興味を持ち、自分に必要だと選んだ取り組みです。早朝3:30から21時に就寝するまでのあらゆる経験が新鮮で、好奇心が刺激されました。自分自身の為だけに全ての時間を費すことができました。雲水さん達の一挙手一投足を始めとして、視界に入るあらゆる取り組みに研ぎ澄まされた規律がありました。つながってきた歴史的に実証される、安心して自分に集中できる贅沢な環境が整っていました。そのような機会を支えてくれた家族や、あらゆるご縁や歴史を心から有難いと感じました。
一方で、課題として取り組んでいた四六時中「仏陀」と心に唱える取り組みには苦労している事を報告しました。あらゆる経験が新鮮な環境で、好奇心が刺激され気を取られていました。他にもあらゆる雑念に邪魔されているように感じていました。全体で10%も心に唱える事ができていない状態を報告しました。
老師からは、「ひとつひとつの呼吸を丁寧に」とのアドバイスを頂きました。そして、老師との面談後の座禅からアドバイスを心掛けると、今までよりも集中できている実感を持つことができました。
仏陀とは誰なのか?
2023年6月2日(金)、二日目の朝も起床時間を伝える3:30の鐘の音で目を覚ましました。直ぐに布団を片付けて、顔を洗いトイレを済まして、大広間でのストレッチに取り組みました。目にするあらゆる行動が規律正しい環境で、自然に背筋が心地よくぴんと伸びるように感じました。
早朝の読経のお勤めが終わり、僧堂で座禅や大広間での歩行禅に取り組みました。老師から昨晩頂いたアドバイス「ひとつひとつの呼吸を丁寧に」に取り組み、ブッダ・ブッダ・ブッダと心の中で唱えることへの集中度が増したことを実感しました。
そうしてひとつひとつの呼吸を丁寧に取り組み、ブッダ・ブッダ・ブッダと唱えている中で、ブッダという言葉に自分が一体化している体感を得ることができました。
そうしていると、ブッダとはどんな人なんだろうかとの疑問(雑念?)が湧いてきました。その時に何故か浮かんで来たのが家族の姿でした。自分の事だけを考えていれば良い贅沢な時間を過ごすことを許してくれた家族に、心からの感謝が思い浮かんだのです。
そして、家族は私にとって仏陀のように接してくれる時もあると思えるようになりました。当然ですが、いつでもそのように接してくれている訳ではありません。ただ、仏陀のように、自分よりも私のことを優先して、私の為だと心から思って接してくれていると私が実感できる機会が今までもあった事に気づきました。それは限られた瞬間なのかもしれません。ただ、そのように接してくれている一瞬は、間違いなく私にとって家族は仏陀なんだろうと思えました。
そう思えると、ブッダ・ブッダ・ブッダと心で唱えていると共に、家族の顔が浮かびます。家族である、晶子仏陀、大朗仏陀、花菜子仏陀たちに囲まれて生きているとの感謝の思いが浮かんで来ました。
そして、瞬間的に仏陀でいてくれる繋がりは、家族だけでないとも思えるようになりました。あらゆるご縁でつながっている、お世話になった方々は、その瞬間・瞬間に、私にとっての仏陀だったんだろうと思えました。
「誰にでも誰かに仏陀として接している瞬間がある」と感じました。
そして、私自身も、家族にとって、誰かにとって、仏陀のように接する事ができた瞬間があったのではと思えるようになりました。そのように思えると、たとえ極めて限られていたとしても、自分自身の仏陀の心に喜びを感じることができました。今までのご縁に心から感謝を感じることができました。
そもそも自力とは?
喜びと感謝に溢れる素晴らしい気づきを得て、より視座の高い世界とつながれるとの体感を得ることができました。つながりを体感できていると、ブッダ・ブッダ・ブッダと丁寧にひとつひとつ心で唱えている瞬間が積み重なり深まっていくように感じました。
そして、老師からの課題であった「禅寺での修行の中で他力を実感すること」へのひとつの答えにもたどり着いた気がしました。自力のように思って取り組んでいた禅寺での座禅などの修行や、あらゆる全ての自発的な修行や行動は、自力だけでは成し得ないと納得したからです。
お釈迦様の縁起の思想が教えるように(そして最新の物理学でも観測されるように)、この世の中のあらゆる存在は関係性つまり、ご縁によって成り立っています。縁によって起こると書くように、文字通りあらゆる存在や出来事は、ご縁によって起こっています。
自力だと思いこんでいるあらゆる自発的な活動は、自力だけでは成り立っていないのです。今その一瞬に至るまでに辿りきれないご縁がつながってこそ、成り立っているのです。あらゆる行動・活動は誰かの他力が関わるからこそ成り立っています。完全なる自力など存在し得ないのです。全てが他力によるものなのです。その他力とは、あらゆるご縁がつないできたものです。家族や友人の優しさかもしれないし、それを総じて阿弥陀様や仏陀のお力だと言うのであれば、正しくその通りだと実感できました。
自力など存在し得ない、全てが他力によるもの。つまり、「禅寺での修行の中で他力を実感すること」を体感できたと思えた瞬間でした。
超え続けていく視座
2日目の夜にあった老師との面談では、喜びと感謝に溢れる素晴らしい気づきを得たこと、禅寺での修行の中で他力を実感できたことへの感謝の気持ちを伝えしました。
一方で、「問いへの答えを見つけた!」と興奮していたのかもしれません。自分の気づきへの自惚れもあったような気がします。
そんな私に対して老師がお伝え下さったのが、「なるほど。では、次はブッダ・ブッダ・ブッダと唱えるのを止めて、呼吸にだけ意識を向けて呼吸を数えることに取り組みましょう」とのある意味そっけない、冷静なアドバイスでした。
喜びに浸っていた私は戸惑った様子だったのかもしれません。その上で老師からは「その気づきを得たのは本当に素晴らしい。ただ、その気づきの物語に囚われると先に進めなくなる。」とのご説明を頂きました。
奥の深い老師からのアドバイスに、また目が覚める思いでした。どこまで進んでもまだまだ先がある。現状に満足せず、現状に留まること無く、常に超え続けていく視座を教わりました。
2日目の面談のあとの座禅、3日目の午前中の座禅では、呼吸にだけに意識を向けて、雑念なく呼吸を数えることに取り組みました。1から10まで呼吸を丁寧に数える。10まで進んだら1に戻って数え続ける。途中で雑念がでてきたら1に戻って数え直す。
この取り組みは、以前から坐禅で取り組んでいた内容です。最初に取り組んだときは、直ぐに雑念が浮かんできて、20分ほど1から進まないことも経験していました。その後も練習していましたが、10まで数えきった経験は一度もありませんでした。
しかし、老師との面談後の坐禅では、10を超えて雑念なく数え続けられることができました。僧堂の厳かな雰囲気や規律のある環境が助けとなりました。そして、より視座の高い世界とつながっているとの体感が、ひとつひとつの呼吸を丁寧に取り組むことを支えてくれました。つながりを体感できていると、丁寧にひとつひとつの呼吸が積み重なり深まっていくように感じました。
人生は他力(ご縁)が10割
2023年6月3日(土)、3泊もお世話になった圓福寺の僧堂をあとにしました。そして、浄土真宗 大谷本願寺派で得度しました。
圓福寺での大摂心は、とても素晴らしい経験でした。ひたすら自分のことだけに集中して、自分だけを観続ける貴重な時間でした。自分自身の為だけに全ての時間を費すことができました。雲水さん達や視界に入る存在に研ぎ澄まされた規律があり、安心して自分だけに集中できる贅沢な環境が整っていました。そのような機会を支えてくれた家族や、あらゆるご縁や歴史を心から有難いと感じました。
老師から頂いた「禅寺での修行の中で他力を実感すること」との課題を達成できることができました。そもそも自力なんてこの世の中に存在し得ないと、改めて縁起の思想の奥深さを実感できる機会になりました。禅宗を自力の宗派だと揶揄してしまいたい人達の気持ちも理解することが出来た気がします。
そして、「誰にでも誰かに仏陀として接している瞬間がある」との気づきと、その気づきに慢心することなく更に超えていくことの大切さを学びました。
私が学んだコーチング理論ではコーチングとは、クライアントの利益が100%で、コーチである自分のことは0%で過ごす時間をもつ事だと学びました。クライアントの利益を100%だとする姿勢が伝わるときに、クライアントの無意識の中に、現状を超える自分の答えを自分で見つける安心と確信が生まれるのだと理解しています。
この大摂心の期間を通じて、老師は仏陀のひとりとして私に接して頂けたと実感します。正しく私が目指すクライアント100%を実践するコーチ像でした。そして、自ら実践して仏陀としての生き方、仏陀への道を目指す僧侶の見本でした。
私自身も仏教哲学の学びを深めて実践していきたいと思います。
そして、より多くの仲間に対して、私自身が仏陀のように接せられる瞬間を積み重ねていきたいと思います。
ご縁のある方々にこの貴重な体験を伝えることで、一人でも多くの人が同様の経験・体感を得る機会につながればと思います。
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