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(日記) 幸せと足跡

気持ち良い風が吹く朝。久しぶりの陽光を喜ぶかのように、アゲハチョウが畑の上を優雅に飛んでいた。そしてその羽ばたきに合わせるかのように、雑草が風に揺られてなびいていた。

「あ!アゲハチョウだ!」
私の声に、飛び出してきた息子が大きな窓の前でアゲハチョウを注意深く眺めていた。そして先までの雨が嘘のように、雑草は色鮮やかな生命力に満ち溢れていた。

その朝、有り余るほどのパンを見て笑っている子供の無垢な笑顔が、時間に追われ、食事を急かすいつもの平日では贅沢のように思えた。

アイスと引き換えに付き合ってもらった自然食のお店で、二人は飽きもせずはしゃぎ回り、行く所々に、足跡のようにその無垢な笑みを残していた。
…。

まっすぐ伸びた巨大な竹の木、秩序なき秩序の中で茂っている名もなき木々。どこまでも続く黄緑の田んぼの海が色鮮やかに光り輝いていて、山々の頂には透明な白雲が静かにかかっていた。

「バカ・ウンチ!!」
息子の言葉に弾くような笑い声が車窓から溢れ出す。そのとき、私は決して「幸せ」について悩み、追い求めていなかった。

「幸せ」とは何だろう。

「幸せ」は、記憶や知識、あらゆる過去から思い起こされた一つの観念だろうか。
「幸せ」が観念になるや否や、目標やその目標を達成するための努力が問題となる。そして「経済的成功」のように人生における「精神的成功」として、達成すべき気高い目標(価値)として現れ、人を支配し始めるのではないだろうか。

目標とその目標を達成するための努力。人生論・宗教論・哲学・心理学・スピリチュアルに至る… あらゆる専門家とあらゆる書籍が、幸せへの「努力」とそのための「HOW TO」や「メソッド」を掲げる。

「こうしなさい」「こうしてはならない」「幸せは〇〇〇にある」そして「私(指導者)は知っている」…。
**
**その中で「幸せ」は、
もう一つのイメージとして、もう一つの達成すべき目標として、さらに区別・分離され、他の問題がそうであるように「もう一つの知識」として、ただ蓄積されていく。
そして「幸せ」は、自分が「不幸」だと感じれば感じるほど、より色鮮やかで、より魅力的な目標や羨望として自らを変えていく。

「幸せ」という言葉への自分の偏見と先入観に、そして絶え間なくそれを達成しようと努力していることに気づくとき。

その努力が、絶え間なく「不幸と幸せとの区別」を生み出していることに気づくとき。

そして「幸せ」もまた「過去への気づきの一つ」に過ぎないということに気づくとき。

「幸せ」はその気づきという自由の中で、決してその言葉に縛られることなく、あの足跡のように、常に新しい無垢な笑みを日常の中に残すかもしれない。

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