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フェミニズムと男性性についての覚書

ハヤカワ五味さん、櫻本真理さんのnoteを受けて、主夫の立場からの覚書。

連休中に、こんな難しいこと考えるな、というのも尤もなので、手短に。

「自分は差別を受けていないと主張する人」

このグループは、いろんなものを含み過ぎている。

本当に差別を受けていない人、
差別を受けていても、ものともしない人、
差別を受けていることに気づいていない人、
差別されないように、強くなるために努力してきた人、
本当は辛いと思っていても、強く見せかけてそう主張している人、
自らがしている差別を隠すために、そんな差別などないと主張する人。

どれも、いろいろな複雑な感情、人間の強さ・弱さ、環境や時代が絡み合って混在している。そこにはわかりやすい区別もない。どれも、その人にとっては、自分が信じている世界であり、真実だ。

わたしたちは男女の違いを、たぶん学校で学んでいる。べつに生物や保健体育の授業だけじゃなく、集団のなかで生きることでそれらを学んでいる。
男子はいつもこうだ、女子ってすぐに~する、そんなふうにラベルをつけて、生物学的な違いに結びつけようとする。そうやって、男女の違いを意識するのは、子どもにとっては自然なことだ。

だんだん知恵がついてくると、もしかしたらその性差は社会的に作られたものではないのか、と気づく。得意なことは男女関係なく人それぞれあるはずなのに、あまりにも男女という性差にそれらを結びつけすぎていないか、と。

そうやって、ジェンダーに気づいたとき、それとどう向き合うか。それに従った方が楽、と思うこともあるだろうし、そんなのはおかしいと声を上げることもあるだろう。それぞれが、その存在と少なからず関わりながら、自分との距離や向き合い方を考える。フェミニズムに反発する、という行為や考えもまた、その向き合い方のひとつだ。その人が考えたその人なりの向き合い方は尊重したい。尊重されなければならない、と思う。

男性性に縛られる男性のこと

私は体力が無い男の子だった。すぐに倒れるし、泣くし、弱かった。男の子のくせに、と散々言われて育ってきて、女の子だったらどんなによかっただろうとずっと思ってきた。だから、娘が生まれてきたとき、自分ごとのように嬉しかった。

働いているときも、ずっと違和感ばかりだった。周りの男性は当たり前のように夜遅くまで働いているのに、私にはそれができない。家でご飯を作ったり、洗濯物を干したり畳んだりするときが、一番落ち着いた。

性別に与えられた社会的な役割やルールに従うことが難しい、そのギャップに悩む。そうした悩みを抱えた人の拠り所になっているのが、フェミニズムなんだろう。そういう意味では、男性学もフェミニズムに含まれる。

もちろん社会の構造的に有利に下駄をはかされている男性が、何を弱っちいこと言ってるんだ、とお叱りを受けても仕方がない。だけど、わたしたちも好きで下駄を履いているわけでもない。不正のあった医学部の男性合格者も、きっと何も知らずに、お上の決めた下駄を勝手に履かされていた。むしろ甘やかされ舐められているので、余計なことをするな、と男性も怒っていい問題だ。わたしは早く下駄を脱ぎたい、自由に好きな靴を履きたい。

思い込みや、都合のいい認知、古い価値観といった潜在的なバイアスに気づくのは難しい。気づいても、それをどうすればいいか分からないこともある。どうしようもないと嘆くくらいなら、忘れてしまいたい、と思うこともあるかもしれない。だから、みんなで考えたい。みんなで考えることが、それらを変えていく力になる。

上野千鶴子の言葉がいつも挑戦的で扇動的なのは、バイアスを気づかせ、壊していくための強さが必要だからだ。私たちにはことばが必要だ。



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