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北野武が『秒速5センチメートル』を観たら、どう思うだろう。

新海誠監督の『君の名は。』や『天気の子』は、大ヒットしたことに疑問を覚えることのない、よい作品だった。

しかし、新海誠監督の『秒速5センチメートル』を観たとき、暗澹たる気持ちになった。失望を覚えた、という方が正しいかもしれない。

暗澹たる気持ち、もしくは失望、それは、鑑賞中ずっと感じていた違和感によるものだった。何に対しての違和感なのかといえば、この映画そのものに対しての違和感である。つまり、『秒速5セントメートル』は映画らしくなかったのである。

なぜ映画らしくなかったのか。それは、ナレーションが多すぎるからだ。

北野武だったらどう思うだろう

『秒速5センチメートル』を観終えて最初に思ったこと、それは、北野武がこの作品を観たらどう思うだろう、ということだった。

北野武作品の特徴として、説明描写の少なさが挙げられる。

北野武が黒澤明と対談した際、黒澤明が北野武映画のよい点として「余計な説明がない」点を挙げている。

また、北野武が1996年の東京国際映画祭の国際シンポジウムに参加した際、『フォレスト・ガンプ』は説明が多いと批判し、「将棋は、しのぎ合いをやっているところを見せれば、その前の過程は当然わかるわけで、だから、見せなくていいところをわざわざ見せなくていい」「前の部分は全て理解できるような絵を撮るべき」と発言している。

北野武作品は、余計な説明を省く事で独自のリズム感を生んでいる。そのリズム感が静謐な雰囲気を生み、そして、バイオレンス描写を際立たせる。

しかし、『秒速5センチメートル』は、説明だらけの映画である。しかも、最初から最後までナレーションで説明され続けるのである。

映画的な物語の伝え方

映画というのは映像の集合体であり、映像とは映画の場合1秒24コマ、つまり24枚の画像の集合体である。画像の、そして映像の集合体によって物語を観客に伝えるものだ。

文字の場合、1秒間で人が認識できる文字数は数文字程度に限られる。即ち、映像は、文字に比べて圧倒的な情報量を観客に届けていることになる。

その圧倒的情報量の映像で、1秒間に数文字程度しか伝えられない文字、もしくは言葉を用いて説明する。この逆行性が『秒速5センチメートル』の最たる違和感だった。実に、映画らしくない。

語らず言葉を用いず、観客に物語をどのように伝えるか。それこそが、映画監督の腕の腕の見せ所であり、個性が発揮されるところだろう。

例えば、愛する人の死を知り、「絶望を感じる男」を撮るとする。

ある監督は、男の顔をズームで捉え、涙を流すシーンを撮るかもしれない。

ある監督は、男が手を強く握り、歯を食いしばり、絶望に打ち勝とうとする姿を撮るかもしれない。

ある監督は、無表情の男の顔を撮り、次のカットで大雨が降る空を映し、男の心象を表現するかもしれない。

このような表現こそ、映画的な物語の伝え方といえるのではないだろうか。

しかし、『秒速5センチメートル』の場合、違うのである。

悲しそうな男の表情を映す。そして、「僕は、悲しみを覚えた」とナレーションが入るのである。もしくは、「僕は、絶望した」と、もっと直接的なナレーションかもしれない。

このようなナレーションがずっと繰り返されのである。

『秒速5センチメートル』を観ていて、その映画的でない物語の伝え方に対し、果たしてこれは映画なんだろうか?という疑問を抱くようになった。ナレーションを書籍化し、詩、もしくは小説として発売する方が正しいのではないか、そう感じた。

観ている最中、ずっと違和感を感じさせられ、観終えた後、暗澹たる気持ちにさせられた『秒速5センチメートル』。

唯一、『秒速5センチメートル』をポジティブに捉えられるのは、上述したように、改めて、映画的な物語の伝え方について考えさせてくれたことだけだったと思う。

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