サスペンスの神様ヒッチコックのキス大作戦
サスペンスの神様として名高いアルフレッド・ヒッチコック監督の『汚名』(1946年)は、ケーリー・グラントとイングリッド・バーグマンという二大スター共演の作品である。
FBI捜査官(ケーリー・グラント)と、父がナチスのスパイという汚名を着せられた女性(イングリッド・バーグマン)が、ブラジルに潜伏するナチス残党の調査任務を遂行する。
サスペンスとロマンスがバランスよく展開され、何よりこの作品は、ヒッチコック作品中においても随一といえるほど、テンポがよい。実際、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーも『映画術』の中で、本作を「シナリオの見本」としている。
テンポよくストーリーが展開する『汚名』ではあるが、途中、やけにダラダラとしたシーンが登場する。ケーリー・グラントとイングリッド・バーグマンのキスシーンである。
ヒッチコックのキス大作戦
ケーリー・グラント演じるFBI捜査官は、最初、イングリッド・バーグマン演じる女性をスパイとして利用するため近づく。しかし、時間を共にするうち、二人は愛し合うようになる。
その愛し合う二人を表現するため、ラブシーンが必要となった。しかも、濃厚なラブシーンがいい。
しかし当時、アメリカ映画には、ヘイズ・コードつまり自主規制があった。そのヘイズ・コードでは「キスシーンは3秒まで」となっている。たった3秒のキスシーンでは、濃厚なラブシーンなど描きようがない。
そこでヒッチコックは考える。なんとかして濃厚なラブシーンが撮りたい。しかし、3秒では足りない。どうするか。
そこで考えたのが、「3秒未満のキス」を何度も繰り返すことだった。
ホテルのベランダから始まる二人のキスキーンは、部屋の中に移動してからも、キスしては離れ、キスしては離れを繰り返す。確かに、一つ一つのキスシーンは3秒未満であるものの、合計すると2分半に及ぶキスシーンを作り出してみせた。
このキス大作戦は成功し、濃厚なラブシーンを実現しつつ、ヘイズ・コードも見事にパスする。
対立と第三の選択肢
『汚名』でヒッチコックが見せた2分半に及ぶキスシーンは、「濃厚なラブシーン」と「ヘイズ・コード」の対立から生まれたものと言える。
交渉や討論、ケンカといった対立が起こると、「善」か「悪」か、「良い」か「悪い」かという二元論的な議論になりやすい。しかし、対立においては、第三の選択肢があるものだ。
ハーバード大学の交渉学研究所がまとめた『ハーバード流交渉術』の中でも、有効な交渉術として第三の選択肢が示されている。
分かりやすい例として挙げられているのが、以下である。
「新鮮な空気が欲しい」男と「風に当たりたくない」男にとって、解決策は窓を開けるか閉めるかだけではない。第三の選択肢として隣の窓を開けるという解決策を示した。
このような交渉術を、本書では原則立脚型交渉としている。対立している双方の主張でなく、主張の根底にある利害に着目し、第三の選択肢を導き出す。そして、Win-Winとなる解決を目指す交渉術である。
ヒッチコックは、3秒以上のキスシーンが撮りたかったわけではない。濃厚なラブシーンが撮りたかった。ヘイズ・コードを管理するアメリカ映画製作配給業者協会は、条項を守ることが使命である。濃厚なラブシーンを禁じているわけではない。そこでヒッチコックは、「濃厚なラブシーン」と「ヘイズ・コード」という対立の根底にある原則に立脚し、キス大作戦を発動、濃厚なラブシーンを作り出した。
生活していく上で、他者とコミュニケーションを取っていれば、対立は起こるものである。自ら招いてしまう場合もあるし、巻き込まれる場合もある。
そのような対立に遭遇した時、頭に血が上る前に、対立する双方の主張の元になっている利害を考えてみる。そうすると、第三の選択肢が生まれ、それが道を切り拓いてくれるかもしれない。
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