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仕事をしない人は会議をしたがる

デンマーク映画『THE GUILTY ギルティ』(2021年)は、警察の緊急通報指令室で、主人公のオペレーターが誘拐殺人事件を解決する様子が描かれる。

事前の予告にあったドンデン返しは、早めに予想がつく展開で、そこに驚きは少なかったけれど、シチュエーション物として緊迫感もあり、展開も早く楽しめる作品だった。

また、この作品が面白いのは、電話のみで事件解決が行われるという点で、カメラは緊急通報指令室から一歩も外に出ない。この作品を観ている観客は、主人公のオペレーターが行う電話の会話だけで、事件の概要、流れ、そして事件解決までを理解することができるようになっている。

そのため、電話というのは、極めて有効な情報伝達方法ということがわかる。

メラビアンの法則

人と人のコミュニケーションにおいては、「言語情報=7%」「聴覚情報=38%」「視覚情報=55%」で影響を受けているという有名なメラビアンの法則がある。

「愛してる」と言われたら、「愛してる」という言語から影響を受けるのは7%だけで、実際は、相手が真剣な表情だったり緊張して声が震えていたりすれば「本当に愛されてるんだな」と感じ、そうではなく、大げさな身振りだったり、わざとらしい上目使いで口元がニヤついていたら「プレゼントでも欲しがっているのかな」など、何かウラがあるなと感じる、ということになる。

メラビアンの法則は、どのような会話内容においても成立するものではないが、顔と顔を合わせて行う会話においては、伝達される言語以外、聴覚や視覚、場合によっては嗅覚からさえも影響を受けることは、実感として感じる。

要するに、人と会って話すと、言語以外のことに注意がいくし、だから伝達される言語以外の情報を多く取得することになる。結果、伝達される言語だけに集中することが出来ない

メラビアンの法則は、人との会話は、見た目や表情、身振り手振りといった非言語コミュニケーションが重要なのだ、という際に用いられることが多い。それは確かにそうなのだが、しかしむしろ、非言語コミュニケーションを必要としない会話、つまり電話の有効な使い方を考えるべきと思う。

電話は、基本的に伝達される言語にのみ注意を向けることができる。それは話す方もだし、聞く方もである。多少、話し方や声のトーンなど、聴覚の影響を受けるけれども、直接会って話す時より影響は小さい。

そのため、言語を伝達することが主目的の場合は、電話は有効な伝達方法だと思っている。

言語を伝達することが主目的の場合というのは、人とのコミュニケーションにおいては、言語を伝達することが主目的ではない場合があるためである。

例えば、本人同士「愛してる」と確認した後、両親に結婚報告に行く場合、結婚の事実は大抵はすでに伝わっているわけで「結婚します」という言語は大した意味はない。結婚相手の身だしなみや人となりを見定めるのが主目的だろうから、これは、直接会う必要がある。

逆に、家族の誰かが交通事故にあった場合、交通事故にあったというその言語を伝えることが主目的なので、直接会う必要性は下がる。つまり、電話の方がよい。

会議におけるコミュニケーション

統計的に調べたわけではないが、感覚的にいって、仕事における面倒な交渉や調整ごとの場合、直接会って話すよりも電話の方がスムーズに事が運ぶ。これもまた感覚的にいえば、会議だったら1時間かかる案件が、電話だと10分で終わる。

そのため、重要で面倒な案件は電話を用いるようにしている。

しかし、ビジネスという場においては電話ばかりもしておられず、人と直接会って行うコミュニケーション、会議というものがある。

会議は「不要だ」「無駄だ」と問題視されることが多い。それでもやはり会議が多く存在しているのは、日本企業の持病みたいなものなのかもしれない。

実際、会議というのは、そのほとんどが不要か儀式的かのどちらかだと思っている。

不要か儀式かというのは、言語の伝達が主目的か否か、ということで分類できる。

儀式的会議
言語の伝達を主目的にしない

不要な会議
(本来は)言語の伝達が主目的

儀式的というのは、謝罪の言葉よりどれだけ反省しているかを見せる表現力、もしくは演技力が必要な謝罪の場や、または、稟議事項や予算の最終承認の会議などがなる。最終承認のような重大決定を行う会議は、会議前の根回しや調整によって決定事項はすでに決まっている。そのため本来的には会議をする意味はない。

ただ、そういう会議は儀式であり、言語を伝達することが主目的ではない。結婚の場合で例えれば、両親に報告した後、婚姻届けという手続きとは別に儀式として行う結婚式のようなもの、と思って楽しむくらいの気持ちでやればいい代物ではある。

そういう儀式的会議よりたちが悪いのは、儀式でもなく、ただ不要な会議というものである。そして、大抵の会議というのはこの不要な会議に分類されると思っている。

なぜ会議は不要なのか

儀式でない会議というのは、何かを議論し何かを決める場といえる。

そのため、本来、そこで話される言語自体が重視されるべきと思っている。しかし、会議は人と会って話す以上、言語以外に注意が向けられる。そこに、矛盾が生じる。

本来、言語に注意を向けるべき場所で、言語に注意が向けられない、という矛盾である。

そのため、メール一本送れば終わる報告をグダグダと長時間かける。資料を読めばわかることを時間をかけて説明する。そして、電話で行う時のように言語に集中した会話ができない。そのため、議論の進み具合が遅い。話の脱線もあり、効率の悪い会話劇が繰り広げられる。

会議が不要というのは、そこで行われる議題が、会議でなければならない必然性がなく、会議の方が効率が良いということもない、そのためである。

重要なことは会議より電話

それでも多くの会議があるのは、それが慣習ということもあるだろうし、会議をしたがる人が多いから、ということでもある。

会議は、不要なのにあえて時間を使う場なのだから、非効率な場であり、もっといえば怠惰の場ともいえる。そのため、仕事をしていると見せかけてサボれる時間だから、仕事をしていない人ほど会議をしたがるものである。

組織の中で立場が上になってくれば、不要な会議を廃止したり、不参加とすることが出来るようになるものもあるが、取引先や組織上のパワーバランスでそうもいかない会議は多い。

そのため、不要であることが明確で、しかしパワーバランスによって参加が必要、ただ、自分が参加しなくても会議自体は成立する会議は、仮病を使ってでも参加しない方がよいと思っている。

仮病で不参加にした会議の時間で、電話を用いて、重要で緊急性も高い、言語に注意を向けるべき案件の報告や交渉、問題解決に努めた方がはるかに有効な時間の使い方といえる。

『THE GUILTY ギルティ』においては、電話一本で殺人、誘拐という重大事件を解決した。このように電話は、事実の報告に限らず、交渉でも問題解決でも、会議よりはるかに、それらを行う際の有効な情報伝達方法といえる。

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