別れの歌を聞かないように〔ショートショート〕
オレンジ色の朝陽がカーテンの隙間から覗いているから、もう夕方なのかと焦って起き上がる午前5時45分。窓際にぶら下がった洗濯物が笑っている。
こんなときのスマホの画面は信用できない気がしてカーテンをすこし開けた。隙間から見える窓の外は明るい。近所の屋根の間から見える太陽が、フローリングの床に窓辺の形を映し出している。それからゴミの袋を持った婆さんが収集小屋へ歩いていくのが見える。このカーテンの隙間から見えるのは、それくらい。
あの婆さんは真っ当な人間だな、と羨ましくなる。オレは太陽の下には出られない。日向に出した氷はすぐに溶けて、日向に出したバンパイアはすぐに燃えてしまう。そういうことだ。カーテンの側の心地良い日陰から、太陽が照らすフローリングの埃を見下す。あれも元々は何かだったもの。洋服か布団か、それか毛布か、とりあえず元々は求められていた物。それが、今や取り除かれるだけの存在。窮屈な立場だなと同情する。
いまのオレはこんなだけど(二十代か三十代か、年齢は見る人次第だから見てくれはどうでもいい)、友達はたくさんいた。それこそ親友と呼べる、オレが死んだと思って世界を敵に回してくれた奴もいた。もう何十年も前に。そいつは先に行ってしまったが、オレは未だにこの有り様。好き勝手に生きている。
空腹感は特に無い。もらってきた期限切れの輸血パックを冷凍したものがわずかにある。それから、日焼け止めと折りたたみの日傘。これくらいでなんとかやっていけている。身軽なもんだ。
不便の無い暮らしと言ったら噓になるけど、納得している。なぜなら、誰かと親しくなるということと悲しい別れが来ることはイコールでつながっているからだ。オレの場合は。たとえば、誰か気の合う奴と知り合ったとしても、希薄にそっけなく、その場限りの楽しみで離れるのが一番いいのさ。あいつはどこかで元気にやってるさ、そんな風に想っているのが幸せに孤独を生きるためのコツだ。
生きていると、何かの代償に時間を支払わされることがある。それは半ば強引で、気が付かないうちに行われることが大半だから盗まれると言い換えても良いはずだ。そしてオレの場合は質の悪いことに、「共有するはずの時間」を盗まれてしまったんだ。それを思い知ったのは、こんな体になってから随分経ってからだった。いつだって歳を取っていくのは親しかった人達で、それを見守ることしかできない現実に孤独を感じた。
本来なら悲しくて仕方ないことが、いまは尊い。普通に、ただ普通に生きていれば起こるはずの“出来てたことができなくなっていく”のが歳を取るということで、それが人間だ。それでもその不自由さを共有しながら時間を進めていく。オセロゲームの手を考えながら順番にコマを置くように互いに競う。でも、その勝ち負け事態に価値があるわけじゃなくて、ゲームに使う時間に価値があることに気が付いた。
オレは、オセロゲームに参加できない。いつもオセロゲームのつもりで椅子に座っても、オレが座ると知らないうちにゲームが変わっているんだ。
最初は綺麗な白と黒のコマ。
陽の光のように輝く白があなた。
オレはいつでも黒。
焦げ臭い黒から煙が上がる。
きれいな陽の光が作り出すのは、汚い爛れた赤のコマ。
段々と、オレの盤面が端から真っ赤になる。
そして顔を上げると、向かいの椅子に座ったあなたはいつも燃え上がる。何もなくなるまで燃える炎をオレはいつも見ているだけだ。悲しさが残り、骨は崩れ、あなたは、彼方に消えていく。
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