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孤独感は仏道修行を妨げるのではないか

悟りというゴールだけに目を向けるのであれば、人との関わりは必要ないのかもしれません。

実際に「犀の経典」という古い経典では、子どもや伴侶を欲することは否定されていますし、人と関わることの弊害もたくさん謳われています。それぞれの偈の最後では、「犀の角のようにただ独り歩め」というフレーズが繰り返されます。

しかし僕自身は、適度に人と関わった方が、かえって仏道修行が進み、悟りに近づくのではないかと感じています。

そう感じる理由はいくつかありますが、そのうちの一つが、一人で仏道修行をすると孤独感に苛まれ、その孤独感が仏道修行を妨げるからです。

人は孤独感に苛まれると、どうしても「このまま一人で生きていけるのだろうか」といった不安を感じます。この世界に安全な場所がないように感じ、「今のままの自分では危険だ」と焦ります。一人でも生きられる強い自分を追い求めて、心は常に闘争・緊張状態です。孤独であるが故に差し伸べられる手もありません。

こうした安らぎも落ち着きもない心では、五蓋(欲、怒り、昏沈睡眠、掉挙後悔、疑)に対処したり、五戒(殺生をしない、盗まない、嘘をつかない、邪な行為をしない、酒や麻薬を使用しない)を守ったりするのは難しいですし、五蓋に対処したり、五戒を守ったりできなければ、瞑想で禅定(深い集中状態)に入るのも難しいです。

もちろん一人で生きていても孤独感を感じない方や、孤独感をバネにして力強く仏道修行に精進できる方もいらっしゃるかもしれません。しかし大多数の方は、孤独感に苛まれ、仏道修行をくじかれてしまうのではないかと思います。孤独感は生物としての人間の本能ですし、悟っていない凡夫の心は、未熟で脆く、弱いものだからです。

僕自身もまだまだ未熟なので、執着したり依存したりすることなく、適度に善友と関わり、善友の助けを借りながら、悟りに近づけたらいいなと思います。

ちなみに日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老も、冒頭で紹介した「犀の経典」について、

「犀の経典」にはとても簡単な偈もありますが、うかつに真似をしてはいけません。経典の言葉を表面だけなぞって、自分の主観で真似するのは危険です。

アルボムッレ・スマナサーラ著『「犀の経典」を読む』

と説いていますし、

孤独行者は一人で自分の修行をします。これまで繰り返し説明したように、この孤独とは物理的な孤独ではなく、精神的な孤独を意味します。「精神的に一人で歩め」という教えなのです。

アルボムッレ・スマナサーラ著『「犀の経典」を読む』

とも説いています。

また「犀の経典」の第十一偈と第二十四偈では、善友とともに生きることが肯定されています。

もしも汝が、
〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得たならば、
あらゆる危難にうち勝ち、
こころ喜び、気をおちつかせて、
かれらとともに歩め

アルボムッレ・スマナサーラ著『「犀の経典」を読む』

学識ゆたかで真理をわきまえ、
高邁・明敏な友と交われ。
いろいろと為になることがらを知り、
疑惑を除き去って、
犀の角のようにただ独り歩め

アルボムッレ・スマナサーラ著『「犀の経典」を読む』

やはり悟っていない凡夫が、物理的に一人で修行をし、悟りを得るのは難しいのだと思います。

以下の動画も参考になると思うので、興味のある方はぜひご覧ください。

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