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紙のお葬式

その日は雨が降った。晴天が続く初夏に久しぶりの大雨だった。
約束の時間は午前十時。片手に傘を持ちながら、自転車に乗って出かけた。
職場へ着くと既にみんな片づけをはじめていた。
私たちの最後の仕事は、書籍の返品と、備品の整理と、店内の清掃。十二人は黙々と働いた。ときおり閉店告知を見損なったお客さんが来て、事情を知ると哀しそうな顔で帰っていった。

雨は激しさを増していた。
昼休みに弁当がふるまわれると、お葬式後のお斎みたいに昔話に花が咲いた。
携帯もテレビもインターネットもまだ発達していなかったころ、ここでたくさんの本を読んだ。愛や友情、恐怖と謎、歴史と社会、宇宙、自然、アンダーグラウンド、ファンタジー……この世に存在するもしないも、まさしく「すべて」がこの場所にギュッと凝縮されていた。
働いていた人たちは、昔からの常連さんばかりだった。本が必要となると真っ先にこの書店へ買いに来た。その時代に働いていた店員とも知り合いだった。月日が経つと、まるで任務を請け負うように世代が交代していった。店を辞めた先輩たちも頻繁にこの場所へ帰ってきた。
私はたまたまその歴史の中に十ヶ月間だけお邪魔させてもらったに過ぎないが、今まで見てきたどの職場よりもお客さんとの繋がりを感じた。この場所には脈々と流れ続けてきた「血」があった。

雨は小雨に変わっていた。
午後も黙々と片づけをした。商品POP、ブックレット、付箋、名刺、メモ帳、ノート、出版社からの宣伝チラシ、書店名の入ったブックカバーをゴミ箱へ捨てる。過去働いていた人の名前が書かれた私物が出てくる。それも捨てる。2003年から始まった、連絡ノートが十冊出てくる。それも捨てる。「○○さんに新刊入荷の連絡をすること」。それも捨てる。
するとすっかり低くなった紙の山から黒い箱が出てきた。何百何千という紙に生命を与えてきたプリンターはずっしりと重く、持ち上げるとき腕が震えた。燃えないごみの袋へくべる予定だったそれを、私は記念にもらい受けた。

雨はすっかり止んでいた。
通り雨でしたね、と誰かが言った。
外へ出ると雨水で蒸された、アスファルトのにおいが立ちこめた。
プリンターを自転車の後部座席にくくりつけ、同僚たちに別れを告げた。気の合う人も気の合わない人もいたけれど、好きなものは同じだった私たち。みんなと笑顔でお別れした。

長い坂道を、ゆっくりと自転車で下ってゆく。
雲の切れ間から細い光の筋が降る。水たまりに油が溶けて七色に光り、どこからかこぼれた洗濯洗剤の良い匂いが香っている。
そうだ、とわたしは思った。
そうだ、今日のことを記録しよう。私の後ろで、カタカタと揺れているこのプリンターを使って。
真っ白なA4用紙に、くっきりした黒インクで。
たくさんの夢が生まれた場所、今はもうないあの書店に敬意を込めて。

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