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Trip|私のフィンランド探訪記 〈10.フィンランドを旅して〉

フィンランドの美しい自然とデザイン、そこに暮らす人々に魅了され、その魅力を発信する活動を行うイラストレーター・フォトグラファーの入海ヒロさんがお届けする、“読む”フィンランド旅。

フィンランドを好きになり、その暮らしを見つめる中で、真似したくなったこと、当たり前と思っていたことが覆されたこと、このままで充分だったんだとホッとしたことなど、気付いたことがたくさんありました。『私のフィンランド探訪記』は今回が最終回。そこで、次のフィンランド旅行を夢見ながら、これまでの旅を通して得た価値観やその変化を振り返ってみたいと思います。


スタンダードを持つ

初めてのフィンランド旅が決まった時、フィンランドの人達はどんな風におしゃれを楽しんでいるんだろう?と私は期待に満ち溢れていました。

ところが、到着して街ゆく人々のファッションに注目してみると、黒いアウターに黒いスキニーパンツ、スニーカーが目に留まります。夏はTシャツにジーンズ。バッグはリュックかコットンのトートバッグ。カジュアルで動きやすく、シンプルなファッションが多いことに驚きました。

一方で、私が想像していた“フィンランドらしい”ファッション、ポップでカラフルなアイテムも、老若男女問わずに身に纏っていました。そして多くの人が、同じ洋服をカジュアルな場からオフィシャルな場までとても上手に着回しています。特別な日だけでなく日常も着ることができるお気に入りのアイテムがあると心強いですよね。それから私も、ホストマザーに「これはおばあちゃんになっても着れるよ。」とオススメしてもらった、いつもなら特別な日にしか着ないような洋服を、普段にも着て楽しむようになりました。

また、数年に渡って旅行をしていて、シーズン毎に目まぐるしく流行が変わる日本のファッションと比べて、フィンランドは変化の幅が小さいように感じました。それはフィンランドの季節の特性のためかもしれません。短い夏を満喫するための動きやすさや長い冬を乗り切るための防寒性が、流行よりも重視するポイントなのかもしれません。着飾ることが目的ではなく、行動が先にあるように感じました。

自分のクローゼットを眺めてみると、ボトムスだけでも、色、丈の長さ、幅、素材、柄などさまざま。このトップスにはこれ、このシチュエーションにはこれ、この靴にはこれ。考えるのにも時間がかかるし、いくらあっても、あればあるほど、足りない気持ちになっていたのです。去年のものは魅力が半分以下になってしまうような、果てしない流行を追うことに疲れていたところでした。フィンランドのファッションを見て、変わらずにシンプルでいいんだ、と思えました。

買い物の視点

ゼロウェイスト、サステナブル、ビーガンなど、フィンランドは地球と環境への取り組みが日本よりも進んでいるイメージがあり、私も人並みにエコな生活をしていたつもりでしたが、実際に現地でホストマザーやフィンランド人の友達と買い物をしていると、新しい発見がたくさんありました。

そのひとつが「ビーガン」です。ホストマザーがスーパーで「これはビーガンの人向けで、肉や卵は使っていない料理なのよ。」と、商品を見る度に丁寧に教えてくれました。驚いたのはそのバリエーションの多さ。ビーガン主義者でない人も購入してみたくなるほどに種類も豊富で美味しそう!選択の幅が広くて、これならきっと困らない。フィンランドに来て、ビーガンがとても身近に感じたのです。

食べ物だけでなく、コスメにも広く浸透しています。友達と買い物をした時に教えてもらったビーガンのシャンプー。シャンプーでビーガンってどういうこと!?と混乱する私に、友達は「動物由来の原料を避ける」という意味でのビーガンなのだと教えてくれました。フィンランドでの生活は、何かが作り出される過程において、自然や動物、地球に優しくということを考える視点を私にくれました。

また、セカンドハンドショップやフリーマーケットを巡っていると、さまざまなアイテムが数十年経っても大切に愛されていること、そして、前提としてとても丈夫であり、壊れたら修理できることが価値基準になっているように感じました。手に届くところに、とても安価で便利なものがあるけれど、何年先まで使うだろうか。捨てないで使い続けることができるだろうか。自分への問いかけが生まれるようになりました。

人との距離感

フィンランド人はバス停で待つ時に人とかなりの距離を保って立つ、というエピソードをご存知の方も多いと思います。パーソナルスペースが広めで、人と一定の距離を保っていることが落ち着くのでしょう。トラムに乗っても、スーパーにいても、視線を感じることはありません。そもそも、ヘッドフォンをして外界の情報を遮断し、自分の世界に入っている人が多いようでした。

人は人、私は私、というフィンランドの人達の中にいるのは不思議な安心感がありました。その中にいることで、私も自分なりの「ちょうど良い」距離感を見つけることができました。

日本にいる時はいつも誰かの視線を感じていた気がします。それは私が同じように、人に視線を向けていたからなのかもしれません。フィンランドで1ヶ月を過ごしてみて、なんて身軽なんだろうと思いました。そしてそれは、誰かの期待に応えなければならないという実体のない自己暗示からの解放でもありました。

完璧を求めない

フィンランドに行く前は、例えば、流行りのファッションを着こなすために、人形のように細くなることに夢中になったり、前髪の乱れを常に気にしたり、無造作感を作り出すために時間をかけたり。完璧さを追求しすぎていたように思います。

フィンランドの人達は、体形を気にせずに着たいものを着ているように私には見えました。ヘルシーでいられれば、それで充分。痩せていなくても、おしゃれじゃなくても、好きな服や心地良い服を着て、好きなものを食べる。自分の心地よさを追求して自分で自分を満たしてあげられたら、それで充分なのでは?と思えるようになりました。

また、滞在していたアパートではこんな出来事も。食洗器がうまく作動しなかったので、部屋のホストに「確認しに来てくれませんか。」とメッセージを送りました。でも、ホストからの返事は「ごめんね!それ壊れているのかも。使わないでね。」こちらがあきらめるという選択肢は、日本ではあまり経験したことがなかったので驚きました。

別の日には、今度は部屋のどこかから異音が聞こえてきたので、またホストに連絡をしました。ですが、やはり部屋に確認に来ることはなく、ひたすら指示に従って部屋中を捜索し、自力で解決。最後に届いたのは「これで静かに過ごせるね!」というメッセージでした。

この経験から、「お客様には対応して当たり前」と思い込んでいた自分と、細やかなサービスに慣れ切っていたことに気付きました。最初はとまどいましたが、最後には逆に「そうくるか」とその状況を楽しんでいたし、このくらいのサービスでもいいんだ、と気が抜けました。完璧な対応じゃなくても、そっけなくてもいい。自分も完璧でなくていいし、人にもそれを求めなくていいと思えた出来事でした。今では笑い話として大切な思い出に変わっています。

最後に

ひとりの日本人が、あたふたしながらいろんな経験をしているのを、フィンランドの人達はちょうど良い感じに放っておいてくれましたし、本当に困ったときにはスッと手を差し伸べてくれました。フィンランドのサービスはそっけないことも多かったけれど、最後にはほんの少し笑顔を見せてくれたり、通ううちに声を掛けてくれるようになったりもしました。トラムで大荷物の私に席を譲ってくれた人もいたし、咳き込む私にのど飴をくれた人もいました。中には、フィンランド人はシャイだなんて本当かな?と思う程におしゃべりな人も。適度な距離感で、優しくしてくれたあの人達に会いに、またフィンランドに行きたいと思っています。

日記を読み返し、写真を眺めながら、このコラム記事を書かせていただくことで、いつでもフィンランドへ戻ることができました。自由に旅行をすることが難しい中にありながら、みなさまとフィンランドへ行きたい想いを分かち合えたような気持ちです。

これまでお読みいただきありがとうございました。また会いましょう!Nähdään taas!


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