よく議論される、勉強力と社会生活の賢さの本当の違い

よく
勉強的な賢さは「 正解がある課題」を考える力
社会的な賢さは「正解がない課題」を考える力

みたいな意見をよく見る。でも私は、両者の本質的な違いはそこではない思っている。

別に、「正解がある課題」も、普通に社会的に生きていく力やコミュニケーションの役に立つ。論理性や他者の意見を読解する能力は国語や数学で身につく。事態を場合分けし対処する能力も数学場合分けで身につく。チャレンジ精神も学校の中で普通に教わるし、受験や部活の競争なども、十分チャレンジだ。社会の仕組み、病気や福祉、自然環境などにかかわる基礎的な知識は、社会や理科で身につく。健康は体育や保険や家庭科で学べる。このように、「正解がある課題」の内容であっても、詰込み受験勉強ですぐ忘れてしまったりしない限り、普通に役立つことは多い。

また、「ガリ勉は ”正解が一つ" じゃないと落ち着かないから多くの正解がある社会生活に向かない」とか思っている人もいそうだが、そんなことは断じて違う。勉強をベースに論理的に考えれば、複数の選択肢が同時に正解として存在することくらい、普通に理解できる。国語の「合っている選択肢すべて挙げよ」数学の「当てはまる整数をすべて挙げなさい」だって複数回答があるだろう。

正解がないとかあるとか、そもそもふわっと言っている人も多いのではないか。

では、勉強的な賢さと社会的な賢さは何が違うのか。私はずばり、勉強力と社会的な賢さの違いは

「感情が動いたときに論理性を失わないかどうか」と思う。

勉強的な賢さは「感情が介入しない課題」を考える力
社会的な賢さは「感情が絡んでくる課題」を考える力

すごく論理性があり勉強ができる知人がいくらかいるが (理系の東大生とか)、そういう人の一部は、すごくセンシティブな話をするとき、罪悪感・悲しみ・コンプレックス・価値観の変化などを伴う話をするときなどに、突然感情に振り回されて論理性を失う人がいる。そういうときだけ偏差値75から偏差値40くらいになるように見える。(話は盛っていない。本当にそんな感じになる) こういう人は社会的な賢さがないと感じる。

国語力がある人は普段、「著者が文中で言及していないこと」は「決めつけられない」とわかっている。

だが、自分の感情が絡んでくると、「相手が何も言っていないこと」を決めつけ、「相手がまだ定義していない言葉の意味を取り違えて勝手に怒り出す」などをし始める人がいる。

数学力がある人は場合分けや平均の考え方をわかっているから、「この人はいま場合1について話している・・あとは場合2と場合3がある。」とわかっている。

だが、自分の感情が絡んでくると、「相手が〇〇といっている!すべての場合にとって〇〇というのか!極端なことを言われた」などと間違った解釈で、勝手に相手を攻撃したり、落ち込んだりする。

そういう具合だ。

例)

・自分が英語ができないのが恥ずかしいあまりに、わかったふりをして決めつける。 (書いていない文章の決めつけに近い)

・罪悪感を感じることを避けるあまり、自分が差別しているかもしれない相手の話をすべて避け始める。例えば障害者や外国人、異性など慣れないカテゴリの人間をとりあえず避けるなど。(論理的に考えれば、普通に話して、相手に失礼を与えたら反省し気を付ければいいだけである。避けるほうがよっぽど社会的な差別性が高いので思考と行動が矛盾している)

・「自分が話していないので相手が知らないはず」であろう事実を、なぜか相手が知っていて当然だという決めつけをつくる。(話すのが面倒で怖いという感情が論理性を邪魔している)

・自分の間違った価値観を認め訂正できない (普段勉強でバツがつけば直していくひとでも、日常生活の価値観にバツをつけられるとそれを認め訂正できない人が多い。これも、自分の間違いを認めるつらさに向き合いたくないという感情が邪魔をしている。)

勉強面では賢いのに、日常生活では上記のように突然頭が悪くなる人いる。感情が邪魔しているからであろう。人生は、感情が絡んでくる問題が大変多い。そこから逃げていては、勉強や「スキル」的なものばかり成長し、精神的な成長は止まった「なんか年齢のわりに子供っぽい違和感ある人」になってしまう。社会的な賢さを身に着けるためには、自分の苦手な感情から逃げず、現実を直視し、論理的に向き合っていくことが大切だ。それが、精神的な成長になる。

というわけで結論、私の「ホントの賢さ」の基準は 、自分の感情がすごく関わってくること、特に、恐怖感、罪悪感や孤独感、自分の間違いを認めるとき、弱さを認めるとき、などについて、論理性を失わずまともに考えれるか、である。

誤解しないでほしいのは、感情を持つこと、感情を出すこと、はすごく大事ということだ。感情をなくしてロボットみたいに考えるべきといってるのではなく、感情を持ちながらも論理性を持つという両立をしていくことが大切だと思うのだ。

END




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