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言葉の乱れという戯言は老人の感傷主義にすぎない

言葉の乱れ?いや、言葉の進化だ!
そんな論争もなんのことやらと
しかし、新しい言葉が出てくれば必ず出てくる謳い文句は「言葉の乱れ」
これの一遍通りでございます。
老人がよくいいますがそんなものは彼ら老人の感傷主義に違いありませんし、そんなものに付き合うほどこの世の中はさらに暇ではありません。


言葉にについては前回はこちらで



言葉は生きている。時代とともに移り変わり、進化を遂げていく。それこそが言葉の本質なのです。言葉とは文化でもあります。しかし昨今、「言葉の乱れ」を嘆く声をよく耳にします。
果たしてそれは本当に「乱れ」と呼ぶべきものなのだろうか?『僕』はそうは思いません。むしろ、それは言葉が辿るべき自然の進化の過程なのだと考えているのです。


若者言葉は言葉の創造性の表れ

「ヤバい」「マジ卍」「ぴえん」...。若者言葉を聞くと、年配の方は「乱れている」と感じるかもしれない。だが、若者言葉は彼ら独自の感性と創造性の表れではないでしょうか?
新しい感覚を言葉で表現しようとする彼らの努力の結晶なのであり、若さゆえの偶然の言葉の出会いと言ってもいいかもしれません。
これは言葉をより豊かにし、表現の幅を広げることにつながるのです。

かつて「ハイカラ」という言葉がありました。
当時の若者が生み出した斬新な言葉であり、年配の人々から非難の的となったといいます。しかし今では、この言葉は立派な日本語として定着しています。新しい言葉を頭ごなしに否定するのではなく、そこに込められた創造性に目を向けることが肝要なはずで……
よく考えてもみてください、そんな頭ごなしに否定されてた若者が今になって老人になって同じことを言うようになっているのですから

外来語は日本語の可能性を広げる

「パソコン」「リモートワーク」「インスタ映え」...。外来語の氾濫を嘆く人もいます。だが、グローバル化が急速に進む昨今、外来語を避けて通ることはできません。
むしろ、積極的に外来語を取り入れることで、日本語の表現の可能性は大いに広がるはずなのです。
かつて、正岡子規はベースボールというスポーツを言い表す言葉がなかったため「野球」という言葉を作りましたし、福沢諭吉は社会や経済と言う言葉を作りました。
いえ、翻訳して、あてがったというべきでしょう。

英語の "diversity" を「多様性」と訳すことで、日本にはなかった新しい概念を導入できました。
"accessibility"を「アクセシビリティ」と訳すことで、誰もが暮らしやすい社会を目指す意識が日本に広がりつつ意識してきたのかというと、こんなiPhone用語は誰も気にはしていないもので。あえていうならば、SDGsのほうがその役割のお題目としてはあったかもしれませんが一番は日本特有の「空気」というものではないでしょうか?今回はこれが本題ではないのでここまでにしておきます。
このように、外来語は日本語を豊かにし、私たちの思考を深化させてくれる存在なのです。無闇に排除するのではなく、上手に付き合っていくことが求められているのです。上手く付き合う、これは選択肢を用意しておくということでその選択を認め合うことが大切なのではないでしょうか


難しい日本語を排除する動きは言葉の可能性を狭める

誰にでもわかりやすい平易な日本語を求める声は理解できますが、共感はできません。専門用語の羅列や、不必要に難解な表現は控えるべきだ。なんていう人もチラホラいるのです。
しかし、日本語が本来持つ奥深さや豊かさまで失ってしまっては元も子もないですし、その言葉を使うことで表現できることもあるのです。
「察する」「忖度」といった言葉が持つニュアンスは、日本語ならではの繊細さの表れなのです。ゆえに安易に排除することは、日本語の多様性を損なうことにつながりかねないということに気づいておくべきでしょう。
物事の微妙なニュアンスを言葉で表現する力は、日本語の大きな魅力の一つです。
言葉を単純化することは、時として思考を単純化することにもつながるのですから、言葉の持つ豊饒さを失わないよう、難しさとわかりやすさのバランスを取ることが肝要だと『僕』は言っているのです。


古き良き日本語?いや、新しい日本語!

「昔の日本語が美しい」という感傷は、ノスタルジーに彩られた幻想といっていいでしょう。
確かに古典の日本語には独特の味わいがあるが、それはあくまで過去のもの。言葉は生き物のように常に変化し、進化を遂げてきました。その流れを止めることはできないし、止めるべきでもないのです。変化を恐れるのではなく、むしろ新しい言葉を積極的に受け入れ、言葉と共に生きていくことが大切なのではないでしょうか?
古典というものはそれでも役には立つものですから在ってしかるべきですし、畏敬を持って接するべきではないかというのはあります。

言葉の乱れを嘆くのではなく、言葉の進化を楽しもうではないか!
死語となった言葉を惜しむよりも、新たに生まれた言葉の可能性に胸を躍らせよう。
新しい言葉との出会いは、新しい世界や価値観との出会いでもあるのだから。きっと、言葉の進化とともに、私たち自身も新しい未来へと進化していけるはずなのです。この新しい言葉というのはまだ彩りのない白い言葉という表現をしてもいいでしょう。
『僕』のような言葉を使う仕事をする人間にとってはこれらの白い言葉というものは嬉しいのです。
どのように自分で彩りを決めていこうかと悩む余地がありますから


言葉は時代とともに移ろい、常に新しい形を模索しています。
その変化の中にこそ、言葉の本質的な美しさがあるのかもしれない。古き良き日本語を懐かしむのではなく、むしろ新しい日本語の誕生に心躍らせたい。
そう、今この瞬間も、言葉は生まれ変わろうとしているのですから。

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