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岸政彦『断片的なものの社会学』朝日出版社,2015年

社会学者・岸政彦さんがフィールドワークとして市井の人々にインタビューをする中で出会った、学問上の目的に収まらない事柄、場合によっては解釈すらできない事柄について綴ったエッセイ。

思うところがあって再読した。


僕もテレビ番組を作るという仕事上、インタビューをするので、日頃なんとなく感じていることと符号する点は多い。

普段、自分は取材相手を、貧困家庭を支援している人を取り上げる番組なら貧困家庭を支援している人だと思って、野球に打ち込む中学球児を取り上げる番組なら野球に打ち込む中学球児だと思って、取材する。

彼らのそういった一側面の中での志や葛藤を聞き出し、物語にし、番組にしていく。


でもそういう取材の中で、「妙なことが気にかかって仕方がない」ということがある。

チンドン屋さんがインタビューの時に普段着として着てきた紺色のポロシャツが仕事をする時の着物姿に比べてなんともコンサバに思えたこと。

「結婚していない」と聞いていた男性の家で取材している時に、彼女なのか姉なのか分からない女性が帰ってきて、その女性への態度が高慢だったこと。

番組の内容には関係ないが、大切なように思えて仕方がなかったことの数々を、僕はあるものはいつまでも記憶し、あるものはいつのまにか忘れている。

記憶していたとしても忘れたとしても、その「妙なこと」が僕の目を引いたのは、その意味のない断片の集合こそ、一人の人間であり、人生であり、世界なのではないか、と予感するからだ。

そう考えたとき、それぞれの断片は、その人がその人だけの固有の人生を生きている証として、強烈な意味を持って立ち上がってくる。

それなのに、社会学にしろ番組にしろ、一人の人間を形づくる豊かな日常を、ある目的を持って見ようとすれば、必ずその目的からこぼれ落ちるものがある。こぼれ落ちていく様子から僕たちは目を離すことができないのに。


その上で、社会学と番組が少し違うのかなと思うのは、番組はそうした断片が、僕自身も気がつかないうちに画面に映り込むということ。
そして番組の印象に大きな影響を与える可能性があるということ。

番組の目的と関係ない事柄に目を留めることは、番組を作る際には多くの場合、寄り道だ。なぜなら番組の大きなストーリーラインには関係がないから。

それでも、その断片のひとつひとつから目を離さずに番組を作っていれば、いつか映り込んだ断片たちが雄弁に語り出し、一人の人間の人生が、見ている人に強いリアリティを持って迫ってくるような番組が作れるのではないか。

「〜をしている人」というような肩書や番組のストーリーに回収されてしまうことのない、人間の個別性、「かけがえのなさ」を描けるのではないか。

そう信じていたい、という思いを今回改めて強くした。

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