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東京とは万華鏡の海である

こんばんは。

穏やかに過ごせる日々をそれなりに送っていたのだけど、久しぶりに都内に行きました。

先日、縁があってグレードの高いホテルへ赴いた。ガラス張りのお風呂に、香水ブランドのアメニティに、海外を思わせる鮮やかな夜のバーがあると調べがついた。そこはいろんな意味で久しぶりの東京だった。


東京の夜の街並みは働きざかりのにおいがした。

煙草と揚げ物が煙にまざり、あたたかな色味の中に冬の木のにおいも決して薄くはなかった。そして華やかな都内は「ものすごく高そうな店」と「夜明けまで煙がただよっていそうな店」の二極化が激しかった。

ここは多分ネオンの海の中だけど、抽象的だと思っていた光たちは美しく浮遊する夢幻ではなく、地に足のついたものたちだった。ゆらゆらと流れゆくのではなく、足をつけて歩くうち ざばざばと水位が上がっていくのかもしれなかった。

メーテルのような白金に染めた髪の美しい女の子も、たこ焼きを売る異国の綺麗な瞳の男の子もいた。ネオンのそばで息をしているであろう少し寡黙なその横顔たちすら、きらめきのように見えた。

大して遠くないくせに「せっかくここまできたんだから」精神で思いつく限りの「ちょうどいいお店」はどこも満席だった。結局、お菓子や店屋物をホテルへ持ち込むことにした。

エレベーターで一緒になった外国人の2人も同じく店屋物を手に下げていた。ネオンの海は閉ざされてはおらず、こういう人達も一定数、出たり入ったりしているのだろう。ホテルの中できく自然な英語はなんとなくドキドキした。

ホテルの中はアロマオイルの香りが満ちて、さきほどのネオンの海は幻のような夜景となって窓に飾られていた。豪奢なホテルの中であちらからこちらへ、と引っ張られていくようだった。

それでも私たちのすることといえばロマンチックなホテルでお笑いを見たり、ゲームをしたり、お菓子を食べたりしていた。遠くから見たネオンの海とその海中が、ホテルの中で小さく再現されているようなものかもしれなかった。

翌日は 兼ねてから行きたかったアフタヌーンティーに行ったのだが、気軽に頼んだ朝食のフレンチトーストが思った以上のボリュームで、アフタヌーンティーも想像以上のボリュームで、甘いものは好きだが沢山は食べられない私はギブアップした。

食ロス、お金、せっかく作ってくれたのに、わたしがお願いしたのに、など複雑な思いが巡ったが、周りも完食しているテーブルはなかった。美しい蝶の飴細工、きれいに立ち上がったクリームの先端、真っ赤な苺、優しくかけられた粉糖、全てが可愛く、おいしく、勿体無いようだった。

朝からの砂糖の摂取量を考えると、気持ちの上でブレーキがかかってしまったのもあった。なんなら前日も珍しく寝る前までお菓子を食べていた。1日でどうこうするものではないと思いつつも綺麗なスイーツたちがプレッシャーになっていた。


帰りの電車の中で私は猛烈に文字に触れたかった。水を求めるように綺麗な文章に触れたくなった。

この2日で華やかで鋭くて、万華鏡の中のような場所にいた。ひとつ扉を閉じると空間が変わり、5分歩いただけで先ほどいた場所が違う場所だったようだった。誘惑するような華やかさで遠くで煌めいていた。それらが私にとっては非日常であることに変わりなく、それがだれかにとっての日常であることもまた美しいことと思った。

綺麗な文字に触れたい、と思えたことに私は「まだここに自分が欲望を持っていた」という安心感があった。私のようなものでも、文字を求める気持ちがあった。最近、文字が書けない、どう書いたらいいかわからない、書いたところで何にもならない、むしろよくないという気持ちが強くて「私はもう文章は書けない」と思っていた。

徐々に光が減りゆく街並みにもまた体が馴染んでいくようだった。サウナから上がったようなさわやかさがあった。別にこの年からでも、住む場所が変わればあの夜の中で生きてゆくこともできるのだろうし、今いる場所が自分になじみきったものとも断定できない。が、好きなものはここにあるのだろうと思えた。

まるで初めて華やかな都内(都内といっても区によって差があるので)に行ったかのようだが、まあ確かに港区に赴くことは少なかったのだけど、初めてではない。県内でも友人や恋人と華やかなホテルでお酒を飲んだりしたことはある。けれどそれはこのサウナから上がったようなさわやかさ、静謐と反対の美しさ、地に足のついた光、誘惑する街並みに目がゆくことはゼロではなくとも、多くはなかったのだ。恋人だったり友人だったり、その人と一緒にいられればどこでもよいけど、それでもその人と一緒に美しい場所に行きたいし、素敵なものを食べたいという気持ちがあった。その幸福感は人を好きだから、その人が大切だから思えるものがあるから、なのだと思う。インスタに上げたいとか、バラバラになった帰り路にやりとりをするようなお土産のような楽しさだとか、一人になれた時のほっとした感じ、心地よさのある疲弊、人とのやり取りの中で得た気づきやまざまざとした混濁した感情なんかがのこりやすかった。

今回はパートナーと行ったのだが、うまく言えないけれど、恋人や友人との距離感よりも自分が自分でいられる時間の長さを感じた。おかれた環境に心の芯のあたりまで浸ることは友人や恋人が相手ではなかったように思う。あぁ、浸ったな、やりたいように過ごしたな、という感覚。こういう感覚も欲しかったんだと気づく。もちろんこの人のことは大事だし好きだし、いろんなところに行きたいともちろん思う。これは二人のやりたいことが似ているのもあるし、日々、自分の気持ちをなきものにしたり後回しにしがちな私に対して、パートナーが私を主軸に考えているが故なのだろう。私も私で、パートナーを決してなきものとして扱っているわけではないのだが。

普通友人や恋人が相手でも浸ることはできるのであれば私はそれなりに自分をころしていたのかもしれない。けれど、それがよかったのだ。自分をころして一緒にいたいと思えなければ楽しみだとは思えない。自分がいないからこそ他人といる自分だった、そんな自分でいられるのも幸せだったし、それが自分じゃないのかといえば本当に、全然そんなことなかった。それはそれでありのままなのでそれでよかったんだ、けれどそれは伝わらなかった。

それはもう、伝える気もないこと。

そんなことを思いながら、揺れる自分の心の振動を少し重く感じた。





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