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デカルトの『方法序説』から学べること

今週末、初参加予定の猫街倶楽部の読書会のテーマがデカルトの『方法序説』。というわけで、感じたことをここにまずメモします。台風大丈夫かなあ。

拝読できておりません(読まなきゃ!)が『デカルトの憂鬱』よろしく、「デカルトの○○」という見出しを付けて、学びや気づきを引用交えながら書いてまいります。

まずはもっとも「これは!」と感じた2つの引用です。

デカルトの開き直り

(中略)われわれの意志はもともと、知性が何らかの仕方で可能だと提示することだけを望むもので、次のことは確かだからである。つまり、いくら良いものでも、われわれの外にあるものはすべて等しく自らの力から遠く及ばないとみなせば、生まれつきによるような良きものがないからといって、自分の過ちで失ったのでなければ、それを残念とは思わなくなる。

ここを読んだとき、松井秀樹の「100%理論」を思い出しました。自分の内を知り、100%を出すことだけに集中すれば緊張しないよ、というあの話。

人は外にあるものをコントロールできると錯覚してしまいがち。生まれつきもそう、自分ではそもそも決められないのだから、良し悪しに一喜一憂することもない。

YouTubeの「カジサックの部屋」で、メッセンジャー黒田さんも似たようなことおっしゃっています。デカルトと黒田さんは同じこと言ってるって、おもしろい。

そうそう、タモリさんは才能についてこんなことを言っています。「才能なんて生まれつき(自分でコントロールできない)なのだから、大したことない」と。

デカルトの覚悟

他の人の仕事については何も言うつもりはないが、わたし自身はいまやっているこの仕事をつづけていくのがいちばん良いと考えた。すなわち、全生涯をかけて自分の理性(=良心)を培い、自らの課した方法に従って、できるかぎり真理の認識に前進していくことである。

この覚悟たるや。

悟りともいえるのでしょうか。自分がこういうふうに生きていくという意志を、これほどまで強固にできるってのは、素直にすごいなあ。

裏返せば、ここまで肝がすわると、幸福度もきっと強くなる。客観的に正しい確信であってほしい。だけど、その「正しさ」っていうのもむつかしい。

ここからは、オマケのパートです。

デカルトの序文

「デカルトの序文」って、この本そのままですが。今回、読書会があるので直接書き込めるよう、あえて紙の本を買った。届いてまず思う。

うすい。

なにしろ本書は論文の序説。第6部まであるものの、あくまで序文です。

ちなみに、かの有名な「われ惟う、ゆえにわれ在り」は第4部に登場する。それが含まれているから広がったのでしょう。

論文の序文が大ベストセラーになるっていうのは、考えてみれば驚き。

デカルトの読者意識

序説はフランスの一般市民に書かれているので平易な表現が多い。前評判の通りです。実際、読者のことをかなり意識しているなあと。

たとえば第6部の「(中略)最初は不快感を与えるだろうが忍耐力を持って全体を注意深く読み通せば、きっと満足していただけると思う」とか。

当時の市民はデカルトのことをどのように思っていたのだろう。

デカルトのスタンス

もともと、こんな印象を持ってました。

「あらゆる本を読破したけれど、学問の限界がわかったので、みずから真理を見出すよ」っていう上から目線。

ちょっとちがった。

すべて学んだけど、満足できなかったとは書いてる。たしかにスコラ哲学のことも皮肉ってる。

ただ、押し付けてはいない。たとえばこんなかんじ。

「(中略)わたしの目的は、自分の理性を正しく導くために従うべき万人向けの方法をここで教えることではなく、どのように自分の理性を導こうと努力したかを見せるだけなのである」

「(中略)わたしが期待するのは、この書がだれにも無害で、しかも人によっては有益であり、またすべての人がわたしのこの率直さをよしとしてくれることである」

「デカルトはイイヤツかも」って本にメモをした。

デカルトのレトリック

真理を探すまでの仮の判断基準のことを格率という。デカルトは家にたとえ、その基準をを仮の住まい(=工事期間中)とした。

また、その格率のなかで、毅然と従うことの大切さを、森の中で迷ったときの行動にたとえてみせた。こういうレトリックはわかりやすい。

たまたま、本書を読む前に「まんがで読破」シリーズの『方法序説』を読んでいた。そこでもレトリックの紹介があるのだけど、当時はまんがのオリジナル表現かと思っていた。

逆にいえば、まんが版『方法序説』は原作に忠実です。素直にオススメ。

デカルトの主張

デカルトの自然学はニュートンの法則の先駆けであり、スゲーっというところもある。

で、残念ながら、機械的世界観に基づく心臓の考え方はまちがっているとしかいえない。

だからといって「古典は誤りがあるからなあ〜」と、まちがいの刻印だけして終わるのはもったいないと思うんです。

何を学べるか。山口周さんの『武器になる哲学』に影響されているのだけど、やっぱり「まずは自分で考えてみろよ」ってこと。

当時は宗教の戦争があった時代。なんとかマウントを取って、自分側の価値観・真理を「これが正しい」と押しつけようとしていた頃。

「もうよくね?」という空気が漂うときに一石を投じたのがデカルト。当時の衝撃は、いまの自分からしたらわかり得ない。どんなかんじなんだろう。

いまや、世の中の学問や常識とされていることは、ある種絶対的な存在となっている。ぼくたちはそれにひれ伏しているしかない。デカルトが現代を覗いたらなんていうだろう。

「文献から学ぶことは大事、そのうえで自分で考えよ!」

こんなことを言いそうな気がします。

というわけで以上です!

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