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【言葉】ポール・ヴァレリー(詩人)『ヴァレリー・セレクション 上』より

いつ・どういうきっかけでポール・ヴァレリーを知ったかは覚えていません。

詩の引用で知られるジブリ『風立ちぬ』のときであったか、小林秀雄が影響を受けていたことを知り、翻訳本『テスト氏』にたどり着いたときか。

「二十世紀を代表する知性」とも呼ばれるフランスの著作家、ポール・ヴァレリー。

むずかしいことは得意ではないので隅っこに置いておくとして、『ヴァレリー・セレクション 上』をさらさらと斜め読みをしたときに出会った、すきな言葉を2つ紹介します。

詩人の偉大さは、精神がかすかにいま見たものを、自分のことばでしっかりとつかまえるところだ。

ヴァレリーの主題が“精神”であったこともあり、言葉そのものの意味で使われていないかもしれませんが、ここでは自分の解釈をします。

ぼくはこの文章をみたときに、タレントのコロッケさんを思い出しました。

なぜ思い出したかって話です。かつてコロッケさんは山寺宏一さんとの対談のなかで、自分のモノマネ芸について過ぎていく感じの残像とおっしゃっていたんですね。

つまりどういうことかというと、コロッケさんは写実的な芸をあえて避けていて、自分の感覚でとらえたものを芸としてアウトプットする。

そうするとご存知の通り、あのデフォルメされた芸になっていくというわけです。

ヴァレリーに戻ると、精神がかすかに見たものというのは、自分の感覚・センスであり、主観の世界であるように思うんです。

現実における対象について、自分というフィルターを通して感じる「認知」でしょうか。

ここで感じ取った認知を、自分の言葉でつかむことができるのが詩人であり、それを絵にすることが印象派の画家であり、それをモノマネにおとしこむのが芸人である。

いってみればコロッケさんのようなモノマネ芸は、詩と印象派の絵画と同様に、芸術そのものではないか。ふとそう感じたのです。

哲学が歴史を積み重ねることで、“世界がどう成り立っているか”から“人間が世界をどう認識しているか”へと、フォーカスがシフトしているように、人間の認識とそこから生まれるアウトプットは、引き続き注目されるのでしょう。

とても偉大な芸術とは、模倣されることが公認され、それに値し、それに耐えられる芸術だ。そして模倣によってこわされることなく、価値が下がることもなく、また逆に模倣したものがその芸術によってこわされることも価値が下がることもない。

創造と模倣、芸術。これらに関わる言葉にはつい反応してしまいます。

かつて三島由紀夫は「創造とは模倣の頂点」あると述べ、ヴァレリーと関連もある小林秀雄は「創造の母は模倣」という言葉を残しました。

ジャン・コクトーは「オリジナリティ」という言葉さえ嫌いました。“われわれは、何をするのにしても、すでに多くのことを踏襲しているのです”。

ヴァレリーの文章はこれらの文脈に対して、パズルのピースのようにカチッとはまります。正解はないのだけれど、一つの考え方として肯定的にとらえています。

『ヴァレリー・セレクション』には、この他にも気づきのある言葉がたくさんあります(いくつか著作が収録されていて、読むのはたいへんですが)。個人としては、つくることに関わる方には、とくにオススメです。

というわけで以上です!

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