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階級が消滅する日

 一時期日本でも世界でも流行った「ベーシックインカム」というものをご存知でしょうか?政府が決められた額を保障するという政策で、その財源は地方分権の徹底や今ある公共サービスの縮小で生み出せるというものです。労働組合の一部、特にアメリカのSEIUの会長で有名人だったアンドリュー・スターンは熱心な賛同者でした。労働組合勢力でも「ベーシックインカム」という制度には親和的な人も多く、特にこの制度は資本主義体制を否定はしていないので労働運動勢力以外にも賛同者がいます。左翼勢力も極右も「現体制の信頼性」というものは案外低いもので、党派性限らずエリート打破、中央集権の憎しみというものは強いです。左翼運動をやってきた私でも少し距離を置きたい「現状を革命したい」勢力の方々。現代の欧州の極右はイデオロギーが人種差別に基づいたもので、かつてのボリシェヴィズムは出生を差別したものでした。北朝鮮は革命以前に労働者階級と言ってもどこまで信用に足るのか分かりませんが、革命以前に資本家階級とレッテルを貼られると、すなわち国内で生き残る術はないという意味と同義です。北朝鮮という国は、かつて労働者階級だったかもしれない人達が党の権力が70年を超えてすっかりと上流階級の仲間入りし、堕落したブルジョワ国家です。世の中、やはり避けられないのは親のコネ、親の力、先祖代々の血族。毒親という言葉と言われますが、仮にもまともに教育を受けさせる親は毒親と言ったら、それは子供の勘違いでしょう。階級社会はもっと冷たく、もっと理不尽なもの。身内を毒だ、これは善良だと言い続けるのはまだマシな方で、そうした恩恵を一切受けられない子供達がいます。社会は案外広い。その広さを知らないうちに自分の生まれ環境は恵まれていなかったと判断するのは早すぎる。だから今の生活に感謝しろと言いません。子育ての責任はやはり親が被らないといけない。子供の責任を親が取るうちは、親の責任。いっぱしに自分で責任を取れるようになってからはじめて自己責任という言葉が生まれてくるのです。私はこの言葉が嫌いなので最終的に社会全体で責任が取れる世の中を目指していますが。

ベーシックインカム古典論

 ベーシックインカムの起源は18世紀末イングランド。いわゆる議会主導の「囲い込み」政策、農地から牧場に転換され多くの小農民は土地を奪われたあの時代に、そもそも大地は共有財産で誰のものでもないのに個人所有にするのはどうなのか?という疑問から生まれました。土地の使用料を大地主から取れば良い。それは共同体に支払う形にすれば潤沢な資金を公平に配るだけで小農民の生活はずっと楽になるのでは?という考え方から生まれたものです。このイデオロギーを創設したトマス・スペンスは後に逮捕、投獄されています。スペンスは社会保障を訴えていましたが、現在ではそうした社会保障を切りたい勢力がこのベーシックインカムを取り上げられるのは癪に感じますね。小さな政府を目指す急進主義者に色々と奪われたものも多いのが現在の左翼運動の反省点でしょう。
 スペンスの後にベーシックインカムが出てくる時代は各国の自由主義が花開いた「諸国民の春」の時代、日本で言えば幕末でした。火事の危険から守る煙突掃除人に対して私達は敬意を払っているのか?ベルギーの著述家であるジョセフ・シャルリエがそう言いました。社会に対して必要不可欠な仕事なのに、低賃金。それに声があげられないのは「失業の恐怖を知っているから」シャルリエはそう明言しています。だから、ベーシックインカムで誰もが最低限の所得を!と訴えたわけです。
 こうした「社会からの配当論」はそこから100年以上進展がなく、本格的に議論されたのが1970年代から80年代。ベーシックインカム論が再び議論され、過去に同じような事例があったのか検討してみた結果再発見されたのがスペインとシャルリエの古典論です。悪い意味でも資本主義は既に共産国を圧倒し万能のものと言われ、数々積み上げてきた福祉国家論が否定された末路に生まれたのがベーシックインカムです。この時代は古典では、曲がりなりにも共助の政策だったのにネオリベラルの福祉政策になりました。

ベーシックインカム反対論

 ベーシックインカムは基本的に経済界の反対論も根強いです。実際最低限衣食住が保証されるなら、どこまで労働力は確保できるのか?逆にそのベーシックインカムの保証内容が物価高のような一企業ではどうにもならない事態で、企業の税ばかり上がり、そのサービス内容は維持されるようになったら・・という反対論はよく聞きます。それに対抗してか一部のリベラル勢力は現在の労働者はそもそも技術革新でいつ仕事が無くなるか分からない潜在的失業者。それではめいいっぱい働く労働からおさらばして、ベーシックインカムで最低限の所得を得る未来の方がいいのでは?という意見も聞きます。
 現在の金融システムは個人の都合ではどうにもならない。それを理屈をつけて、いいところばかりしか宣伝しないベーシックインカム論。労働運動の反対論には「そもそも社会保障がちゃんと存在すれば、議論する価値はどんどん小さくなる」という批判があります。ベーシックインカムは政府の中央官庁を極力削ぎ落とし、最低限の保障を現金、もしくはそれに準ずるもので支払う制度です。国家の保証がない社会保障は削減された事と等しい選択です。そもそも資本主義が高度に発展したため、起こり得た新たな福祉論がベーシックインカムです。国家を全否定しかねないベーシックインカム勢力において、国家に変わる中央集権的な「コア」が必要になります。それは巨大な独裁国家になりうる事と紙一重です。その代役は誰が担うのでしょうか?
 そもそも働く意欲はベーシックインカムで増すとも言われますが、ある国の無作為での抽出の結果、やはり勤労意欲は下がっているという指摘はあります。データはよくも悪くも扱う人間次第。
 立憲民主党は給付付き税額控除を訴えています。形を変えたベーシックインカム論。これは正しいかどうかはやってみないと分かりませんが、1番実現可能なベーシックインカム論と言われます。その是非はとりあえずおいておきましょう。私は党派性「のみ」で政策を語りたくないので、あえて言いますが限定的にでも政府機能の縮小を目指す考えは否定的です。導入すれば、ストッパーだった法的根拠が曖昧になり皆が皆、配当を当てにするようになれば想像も難くないです。社会保障、人権に関して言えば一歩の後退も許されない。全国民に配当するというイデオロギーが肯定されると、その財源を生み出すために必ず生活的に弱い立場の人間が攻撃されます。現代の「T4作戦」に繋がりかねない政策には断固反対します。
 

ベーシックインカム労働論

 ベーシックインカムには再就職や学ぶ直しに必ず必要となる元手が手に入る。というものがあります。就職支援については今後も議論がされるでしょう。そもそも国が労働というものにあまり価値を置いていないという点では、古今東西同じです。金融資本は莫大な財産をもたらした一方で、国の分断をより進めたとも思えます。アメリカの分断が好例です。貧富の差が拡大すれば1発大逆転の革命思想に靡く。それは極右であっても急進左派であっても。だから最初から自分を中道だと言い切る政策は論外なのです。それは結局貧富の差を本質的に変える気が無いのだから。とは言っても過激な主張に尻込みするのも人間の性。そうした過激な思想に反対するという立場表明も「中道」という言葉は分かり易さもあります。AIが仕事を奪うと言われますが結局その運用や責任は人間がやるしか無い。そうなれば人間の仕事なんか無くならない。AIでもやれるという常套句のために、人間の労働力はより低価格になるでしょう。AIが絶対に間違わないというより、AIが人権を脅かすようなことを効率化の名の下に導き出し、それが人間が実行したら・・というのは私の考えすぎでしょうか?AIは全人類の保障まで目を配れるとは思わないです。人類が達成できないのだから人類が作ったものがいくら最先端でも、その思惑通りに進むでしょうか?ダイナマイトだって最初は労働の効率化のために開発されたのですが、今や戦争の道具としか使用されていません。
 消費税還付法案はどこまで人間の思惑通りに行くのやら。宗教が人類の思惑通りに進まず結果として戦争の大義名分になっています。どうか右派勢力の道具になるぐらいなら、もっと検討してほしい。社会主義を捨て、「リベラル」という馴染みがないものを押しつけるなら社会保障のあり方は国民的議論になるべきです。右翼勢力は世の中分断できるならなんでも利用します。扇動の専売特許が親ボリシェヴィキやコミンテルンから極右のものになったのだから。



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