L.L.Snow

尋常なる社会適合外者。【物書 http://kakuyomu.jp/users/L_L…

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尋常なる社会適合外者。【物書 http://kakuyomu.jp/users/L_L_Snow

マガジン

  • まどろみの中の思考

    言葉はウソである。言葉が語るのは虚偽であり、虚構であり、フィクションであり、つまり何の真実も無い。そして、この語りは言葉であるが故に矛盾する。

  • 死生想[生きるの正体、死ぬの正体]

    ニンゲンは「生きる」けれど、最期には「死ぬる」ならば、と問う。この世で最も考えてはならない事柄である「生きる」とは何か、「死ぬ」とは何か。答え無き答え、無益なる無益、虚しいだけの徒労、現実のニンゲン社会を視て、死生想する。

最近の記事

「なぜ人を殺してはならないのか?」という間違い

 「なぜ、人を殺してはならないのか?」と言う問いは、その問いが間違っている。  上記の問い掛けは古今東西の倫理道徳において頻出する共通のお題であるが、その答えに関しては様々な意見が噴出しては水掛け論に終わる。そして、最終的には「なんだかよくわからないけど、人は殺したらダメだ」という精神論で強制的に結論付けられる。  この単純な問い掛けに、なぜ答えが出せないのか。それは問い自体が間違っているが故に、解無しとなるからだ。その理由を以下に述べていく。  まず第一に、「なぜ、人

    • 手段と目的と出来ない客観視

       手段が限定される場合とは、複数の目的を同時に達成する為であるならば正しい。だが、一つの目的を達成する為に手段を限定させるのは愚かな行為となる。  よく言う「客観視をしろ」との諫言は、逆説的に見れば人間はモノゴトを主観的に見る方が当たり前の生き物であると指している。つまり、人間にとって客観視とは「する・しない」では無く、基本的には「出来ない」のである。  人間は主観的な生き物である。だからこそ、人間は手段に意味を篭める。確かに理屈の上では、手段とは目的を達成する為に行使さ

      • 全ての自由を受け入れる虚構

         創作であるならば、そこに書かれた言葉や表現の全てが思想の自由として保証される。仮にされ無かったとしても、やはり自由なのである。  創作上に描かれた言葉は現実を表すモノでは無い、という一点の事実によって切り離されるからだ。切り離されるのは現実であるが、もっと厳密に定義するならば社会共同体との分別である。  虚構として描かれた言葉は、現実の社会共同体に一切の影響を与えない。与える訳が無い、という信仰がなされている。故に、創作の言葉は無意味となる。無意味でなければならない。

        • 死生想[6]-自身の死を、自身から切除した果て

          +自身の死さえ手中にあると信じている標準的なニンゲンは「自分は死ぬ」と言う事実に対して、生活態度と同じ様に選択可能な主体性を持ち得ていると信じている。だからこそ、自身の死を「未来の死」または「過去の死」として現在を「生きる」自分と切り離して捉える事が出来るのである。 この自分の生き死にを支配制御できるという主体性は、裏を返せば、自身を含めた世界の非主体的な変化を拒絶する価値観となる。 もしも、自身が生きている事そして死ぬ事が個人の思いのままであるならば、ニンゲンの肉体的

        「なぜ人を殺してはならないのか?」という間違い

        マガジン

        • まどろみの中の思考
          3本
        • 死生想[生きるの正体、死ぬの正体]
          7本

        記事

          死生想[5]-自身の死から目を背けて生きる価値

          +自身の死は隠されるが正しい生き方標準的なニンゲンにとって「自らは死ぬ」と言う現実は、今日ではない何時かに死ぬだろうとした「未来の死」、もしくは、自分は既に死んだ身であるから今日も死にはしないとした「過去の死」によって認識の外へと隠されている。 しかし、平常な精神で「生きる」に自身の死を意識する必要は無いのである。むしろ、日々の生活の中で常に自らの死を想いながら「生きる」ことは不可能とは言わずとも、何らかの障害が発生するのは想像に難くないだろう。 だからこそ、標準的なニ

          死生想[5]-自身の死から目を背けて生きる価値

          死生想[4]-自身の死を、過去に定める

          +自分の死が「過去の死」になる瞬間一般的にニンゲンは自身の死を体感し得ないが、稀に自らの死に限りなく接近する場合がある。事故や災害または人災に巻き込まれながらも生還した生存者(サバイバー)は、自身の死を過去に定義してしまう事がある。大小や規模を問わず、出来事と自らの死が鮮烈な印象を形成する事で、本来ならば体感し得ない自身の死を体感する。その体感が「過去の死」となる。 つまり、「過去の死」とは、主観的真実において自分の死を確信する様な出来事を経験した者が、自分の死はその出来

          死生想[4]-自身の死を、過去に定める

          死生想[3]-自身の死は、未来に在るとする

          +自分の死は直感できないニンゲンは、自分が死なないと思って生きている。しかし、そう言うと大抵の人は即座に否定するだろう。ならば、「貴方自身の死は何時何処に在るのか」と問えば、返ってくるのは「明日か、明後日か、数年後か、遠い未来だ」となる。退屈な捻くれ者であれば「もう、死んだ身だ」と宣うかもしれない。だが、自身の死が「今、この瞬間、この場にしか存在しない」と答えられるモノは、そう居ない。 普通に生きる標準的な人々にとって、死の存在自体を論理的に理解する事は出来ても、自分自身

          死生想[3]-自身の死は、未来に在るとする

          死生想[2]-生き方は二元論的な一つの評価軸に基づく

          +隠された行動指針こそ「二元論的な一つの評価軸」標準的なニンゲンにとって、自身が「生きる」ことに無頓着であるのは平常である。だから、彼らに「どの様にして生きているのか」と問い掛けても、答えに窮してしまう。無理に答えようとしても、出てくるのは自身の職業や趣味または何らかの嗜好について語るに尽きるだろう。 ニンゲンは基本的に自身が「生きる」ことに疑問を抱かない。それ故に、自身が「どの様にして生きているのか」も意識する必要が無い。だが、その様な多くの標準的なニンゲンは或る一定の

          死生想[2]-生き方は二元論的な一つの評価軸に基づく

          死生想[1]-「生」は偶然拾い上げた氷に同じ

          +氷塊を偶然手に持った者現代の一般常識として、生命の誕生は崇高であると規定されている。特にニンゲンとして生命ある事は、奇跡であり尊くあり大事であり感謝であり、そして続くは生命賛美の美辞麗句である。だが、生命が在る事はそこまでの価値と意味を有せねばないのだろうか。 私が想うに、生命が在ること、その誕生とは、道端でふとした偶然に拾い上げた「氷塊」と同じであると考える。 初めは、自身が「氷塊」を手に取った事の自覚は無いだろう。それでも暫くする内に、自分が「氷塊」を持っている事

          死生想[1]-「生」は偶然拾い上げた氷に同じ

          死生想[0]-根源的欲求「死にたくない」「満たされたい」

          標準的なニンゲンの活動そして意志を突き詰めれば、在るのは「死にたくない」と「満たされたい」とする根源的な欲求に到達する。見方を変えれば、ニンゲンは根源的欲求たる「死にたくない」もしくは「満たされたい」のどちらかまたは両方に突き動かされて生きていると言える。 しかし、これは特別な考えでは無い。むしろ、標準的なニンゲンを考えた時に到達する普遍的な指摘である。例えば、仏教観では煩悩と言い、キリスト教観では7つの大罪と言い、心理学ではマズローの欲求5段階と言う。これらはどれも抽象的

          死生想[0]-根源的欲求「死にたくない」「満たされたい」