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死生想[3]-自身の死は、未来に在るとする

自分自身が死ぬ事に対して、無自覚に「何時か、きっと、そのうち」と保留する理由を死生想する。
想うに、ニンゲンは自分の死を未来に空想するからではないだろうか。
貴方が自分の死に無自覚ならば是非読んで頂きたい、そして、貴方が自分の死に自覚的であるならば「未来の死」について是非批判して頂きたい。


+自分の死は直感できない

ンゲンは、自分が死なないと思って生きている。しかし、そう言うと大抵の人は即座に否定するだろう。ならば、「貴方自身の死は何時何処に在るのか」と問えば、返ってくるのは「明日か、明後日か、数年後か、遠い未来だ」となる。退屈な捻くれ者であれば「もう、死んだ身だ」と宣うかもしれない。だが、自身の死が「今、この瞬間、この場にしか存在しない」と答えられるモノは、そう居ない。

通に生きる標準的な人々にとって、死の存在自体を論理的に理解する事は出来ても、自分自身に必ず起こる事として実感できない。より正確に言うならば、動物は自身の死が存在する事を直覚する機能が無い。だから、ニンゲンも同じく動物である為に、概念として理解は出来ても体感として知る事は基本的に出来ないのである。

うすると、ニンゲンにとって自身の死は実態を伴わない仮定となる。結果、理屈として自分も動物である以上は時間経過と共に死ぬ絶対があるとの知識はあるものの、自死に対する現実感が希薄な為に、推定の未来に自らの死を規定するのだ。

+永遠に到達しない未来にある死

の捉え方は、永遠に追い抜くことが出来ない「アキレスと亀」と同じ様に、自分は自分の死には無限に到達しないだろうと感じられてしまうのである。生きれば生きる程に、まだ生きていられるだろうと楽観し、確かに死が近付く様な要因が目の前にあったとしても、今日はまだ生きていた、だから明日も生きていられるだろう、と感じる。

うやって、自分の死にどれだけ近付いても、まだ大丈夫、まだ数ヶ月は持ちそう、まだ数日は持つ、まだ数時間は生きていられる、まだ数十分は生きてる、まだ数分の猶予がある、まだまだ数十秒、まだ、まだ、まだ、と続く。自身の鼓動が停止し意識を手放す瞬間まで、自らの精神は自身の死に到達しなくなる。認識は自身の死を知らず、永遠に生き続ける。

身の死は未来に置いてあるものだと認識される。大多数を占める標準的な人々にとって、自身の死は「未来の死」となる。自分も死ぬだろうとは思っている、けれど、それは未来の話だ。この様に何処か時間的に遠いナニカとして自らの死を認識する事は、社会生活を平常に過ごす上で適切な捉え方だと言える。

+「未来の死」が希望と期待を作る

ぜなら、「未来の死」は主観的世界において希望や期待を成立させる条件として必須だからだ。自分の死はまだ来ない、と言う都合の良い解釈は、翻って未来予想を容易にさせる。自分はまだ死なない、だから、来月には温泉旅行に行こう。温泉旅行に行くための服は来週の休日に買いに行こう。そうやって、標準的な人々は自身の死は来ないと言う大前提の元で、自らの人生設計もしくは短期の未来予想を行い、そこに希望と期待を載せて、今日を生きるのである。

日も良い日になりますように、と願いながら眠りにつく幸福は、自身の死に対して「まだ来ない」と信じ切っていなければ成立し得ないのである。そして、この信心は余命幾ばくかの病人でも同じである。

しかしたら明日にでも自分は病で死ぬかも知れない、でも今じゃない。この「未来の死」に対する時間的な長短は問題では無く、重要なのは自身の死は今じゃない、自分は未来で死ぬとの確信、それが標準的なニンゲン達にとって「今日を生きる糧」となる。つまり、希望の正体だ。

+現代社会が実現する生存の代償

かし、現代の医療と科学によって、未来に在る自身の死が現在を追い抜いてしまう場合がある。この死の追い越しとは、治癒不可能の物理的な不自由と障害を抱えたまま生存する事である。現代のニンゲンは、巨大な社会保障に加えて最新医学の恩恵を平等に受けられる環境を実現した結果として、死ななくなった。これは見方を変えれば安易には死ねなくなったとも言える。

して当然の身体に束縛された生きる精神は、自身にとって未来に在った自らの死に到達し、かつ、追い越してしまう状態となる。こうなれば、自らの死が自身の後ろから常にピッタリと追いかけ続けているかの様に感じられるだろう。

の様に死が自分の後ろにあるとの感じが、終活や終末医療を受ける標準的なニンゲンが抱く絶望である。老人だけでなく、数多くの治癒不可能なニンゲン達が死せる肉体に封じされ、現代倫理観の名の下に医学の粋と重層の社会保障によって生存させられている。

して、希望は反転して絶望となる。明日に希望する為の大前提たる「未来の死」は、既に到達してしまい今や後ろから追いかけて来る死となってしまった。そうなれば、もう明日に希望を抱く事は出来ない。しかし、だからこそ、標準的な人々は足掻くのである。少しでも絶望を緩和する為に、いわゆる「死ぬまでにしたい10の事」や「遺言」または「懺悔」に縋ろうとする。

+死に近付いて再構築される「未来の死」

えば、死ぬまでにしたい10の事。やり残した事を想うのは、希望である。自身の肉体はどうしようもなく死に接近しているが、それでもまだ間に合う筈だ。まだ間に合うならば、やり残した事を、したい事を、しなければならない事を、自身の死に追い付かれる前に行おう。行わねばならないと自身に言い聞かせる。

えば、遺言。自分は願いを叶えるだけの行動が出来ない程に肉体や精神が衰弱しているならば、想いを託そうと画策する。感謝を示せば、自分自身がこの世に存在していた事を生きている人々の記憶に情緒を以って残されるだろう。遺産の配分について書き残せば、生前の自分自身が誰の事を想っていたが判明し、財産と言うカタチで記憶に残されるだろう。寄付や慈善活動を委託するのならば、より多くの人々に対して自分自身の社会的な善性を示しながら記憶に残されるだろう。また、恨み辛みを最期の言葉とするならば、生きている間には成せなかった復讐の代行となり、相手に伝われば良心に呵責を与える事が出来るかもしれないと安堵する。

えば、懺悔。凶悪な重犯罪を犯した死刑囚であっても、処刑執行の前になると後悔と祈りを捧げる様になる。これから死ぬ身にあって、もう生きて悔い改める事も出来ず、してしまった行為を贖罪する事も出来ず、ましてや後悔を忘れることさえ出来ないまま、自身が罪と感じている事と一緒に死なねばならない。この手遅れの感情を少しでも和らげる為に、ニンゲンは自身の今までの行いを懺悔する。懺悔し告白し白状し自白し、自らが行った罪業から救われようと逃れようと藻掻く。

が、結局のところ、どの方便も「未来の死」を再定義したに過ぎない。自分はまだ死んでいない、と言う確証を理屈で塗り潰そうとする働きなのだ。塗り潰したいと願うのは、自身の死は今現在の此処に在ると言う現実である。

+後悔をし続ける限り生きていられる

分が「しなかった後悔」もしくは「してしまった後悔」を解消しようとする行為は、一見すると自身の死に対する諦観の様に見える。だが、その本質は自身の死の拒絶である。標準的なニンゲンは無自覚なまま根源的欲求たる「死にたくない」「満たされたい」を求め続ける。だからこそ、医学的に物理的に自身の死が目前にあっても、自身の死は認め難い。

れ故に、「しなかった後悔」を解消しようと働くのは、アレコレをするまで死ねないと感じ、完了すれば満足したと自分自身を納得させ、自らが「生きている」事を自分自身に対して強調する為である。だから、「しなかった後悔」を解消しようとしていれば、まだ自分は死んでいない、と安心できる。

た、「してしまった後悔」を解消しようと働くのは、清算不可能になった過去のモノゴトに対して謝罪と懺悔を繰り返せば、罪業が理由で自分は死ぬのでは無い、と誤魔化せる。であれば、懺悔を続ける限り自分は「生きている」資格がある、と思い込める。

+「未来の死」という顛倒夢想の効能

の様な理屈を立てようとも「未来の死」は存在し得ない妄想である。けれど、標準的なニンゲンにとって自分自身が死ぬ事実を直感する機能は無く、体感する事は難しい。だから、自分の死を保留にする。

して、保留にした自分の死には、延々と到達し得なくなる。ニンゲンはどこまでも理知的に知性的に論理的に社会的に道徳的に倫理的に、自分自身は自らの死に到達し得ないとする理屈に基づいて「生きる」事を諦めない。

れど、それが健全な精神と称される。自分が死ぬ事実を度外視して人生設計をする事が当たり前の常識であるとした大前提で、社会は運営され、人々は安心して生きていく。幸せに生きていく為には、自らの死は遠い未来に起こらなければならないのである。

自身の死は明日に訪れるかもしれない、でも、今では無い。

全で幸福なニンゲンは自身の死を未来の中へ投げ込むことで曖昧模糊にし、素晴らしい今日と言う一日を過ごし、輝かしい明日に期待しながら眠る。これが一般的な「未来の死」を信仰する者達の生活だ。

eof

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