見出し画像

死生想[6]-自身の死を、自身から切除した果て

ニンゲンは生きるにあたり、もはや自身の死を自身から切り離すのが当然となっている理由はなぜか、死生想をする。
想うに、標準的なニンゲンが「生きる」を維持するにおいて「自身の死」を知覚すると支障が起こるからではないだろうか。
貴方が自分が死ぬことを自分事だと感じているならば是非お読み頂きたい、そして、貴方が自分が死ぬのは他人事だと信じているならば是非批判して頂きたい。


+自身の死さえ手中にあると信じている

準的なニンゲンは「自分は死ぬ」と言う事実に対して、生活態度と同じ様に選択可能な主体性を持ち得ていると信じている。だからこそ、自身の死を「未来の死」または「過去の死」として現在を「生きる」自分と切り離して捉える事が出来るのである。

の自分の生き死にを支配制御できるという主体性は、裏を返せば、自身を含めた世界の非主体的な変化を拒絶する価値観となる。

しも、自身が生きている事そして死ぬ事が個人の思いのままであるならば、ニンゲンの肉体的にも精神的にも起こり得る変化は、自身の許可と選択でしか起こり得なくなる。

ちろん、当たり前だが、そんな事は物理的な現実世界では有り得ない。けれど、標準的なニンゲンは自身の肉体的な内部変化にも外的要因による影響も、主観的真実においては「無い」モノであると信じている。

分の許可なく、自分は老いないし、死にもしない。自分の許可なく、周囲の世界は自分の知らないモノゴトを発生させないし、自分を矯正させる様な変化を強要しない。標準的なニンゲンの目の前に広がる世界は、自分自身を含めた認識する世界は、昨日と同じ明日が続く平穏で安心な今日の連続である。だから、恭順と安寧によって統制された善性をこそ正義だと期待する。

+全てを意のままに、を真実とする

準的なニンゲンは、無自覚なまま自身の死を自分から切り離し、自分の生き死にを支配制御できるとの主体性を信仰し、故に自分は自身の絶対的な統制者であると認知する。だから、自分の世界における自分が知らない変化は「有り得ない」現象として認識してしまうのだ。

が、客観的な事実として、万物の死とは変化である。動物の一種であるニンゲンも例に漏れず、その死は変化だ。だからこそ、自身の死とは、究極的で絶対的な変化をもたらす結末だと言える。そして、その死は決して主体性の手中には収まり得ない。むしろ、自身の死は、自身の意志や支配を全く受け付けない「自身の外」といえる変化現象である。

からこそ、自身の死から目を背ける認識は、「変化」の否定へと繋がる。

+自分基準の移り変わりが「変動」という

もそも、標準的なニンゲンの宣う「変化」とは、突き詰めると「変動」と言える。この変動とは二元論的な快楽と不快の移り変わりである。目の前の快楽と不快の変動を楽しみ、そして、明日はどんな変動が現れるかと期待して居れば、満たされ続けられる。

動に一喜一憂し、快楽と不快を決定する評価軸に基づいて「生きる」ならば、自身の死という「変化」から目を逸らす事が出来る。

から、待てる。標準的なニンゲンは、自身の死が物理的に到達する瞬間まで、希望か渇望を胸に抱いて従順なまま安心して待ち続けられる。彼らにとって、目の前の変動し続ける世界が「変化しない」と確信して明日を待ち、幸福なまま眠れる。

の幸福なまま期待して待てる精神は、自分自身の生存に対して「生きている意味」を形成する。最も軽薄な価値観は「生きていればイイ事があるさ」である。

+生きていればイイ事があるさ、という呪詛

の「生きていればイイ事があるさ」という言葉に込められた無自覚な本質は、自身の死を否定し、変化の無い明日を夢想し、快楽と不快の「変動」を待ち続ける状態への幇助と共犯である。

不尽かつ無責任な「生きていればイイ事があるさ」という価値観は、標準的なニンゲンにとっては「生きる」上での正常な認識となる。自身の死を「未来」または「過去」のモノとして切り離し、目の前で変動する快楽と不快に集中し、自他の変化を見なかった事にしながら、昨日と同じ明日を夢見て機会を待ち続ける。これが幸せなまま最期を迎える秘訣であると信仰する。

まり、標準的なニンゲンの宣う「生きている意味」とは、「変動」を待ち続ける勤勉さを指す。そして、この「変動」への執着たる「生きている意味」は、反転して「死ぬ意味」として成立する。

+待ち、そして、死ぬ

「死ぬ意味」とは、自分自身が生存して「変動」を待ち続けた事実に対する総決算だと言える。自らの生存を肯定する為に、自分は生きる意味があった、自分の人生は素晴らしいものだった、自分が生きたから関係が起きた、として最期まで「変動」に価値を見いだす。

分の死によって肯定されるべきなのは、「変動」によって起こった自身の快楽と不快の増減である。決して、成否では無い。自分自身が一生涯を賭けて待ち続けた「変動」の結果を無反省に肯定する。

からこそ、充分な蓄えと何人もの孫に囲まれて大往生することも、孤独に恨み辛みで呪いながら若くして自殺することも、自身が感じ得た「変動」に則している。つまりは、このどちらの一生涯も、全くの等価値において、肯定され得る。標準的なニンゲンたる両者は、自分自身の一生涯を自分自身の死によって肯定することが出来るのである。

うした時、自身の死は「使う」モノと化す。自分自身が「生きる」間に感じた快楽と不快の「変動」を、自分が「死ぬ」とする時節に全面肯定する。この機会の創出こそが、自身の死の役割であると標準的なニンゲンは信じている。

+どうして「変化」を恐れるのか

分の死を自分の持ち物の一つであるかの様に感じるのは、「変化」の拒絶または無視だと言える。しかし、自分自身を含めて万物は流転するという現実を見ない姿勢をこそ、「生きる」者として正常だ、とも言える。

物の一種たるニンゲンにとって、「変化」の究極は自身の死である。この自身の死を正しく認識しないように精神が正常に機能する事で、ニンゲンは自身の「生きる」を成立させている。だからこそ、標準的なニンゲンは自他に起こる「変化」が盲点かつ恐怖の根源となる。

たる例が、歳を取る事で現れる「変化」である。

+年老いる「変化」が示す先

年期から青年期に起こる肉体的精神的な「変化」は成長を意味する。自覚か無自覚かを問わず、出来なかった事が出来る様になる。世界は自分の「変化」と共に広がりを見せ、自分自身が世界を支配操作しているかの様な錯覚を学習していく。

年期から壮年期では、大きな「変化」が無くなる。そうすると、自分と「変化」の間にある関係性に対する認識が薄くなっていく。良く言えば成熟、悪く言えば常態となる。小さな「変化」には目を瞑り、目を背け、見なかった事にして、昨日と同じ明日を夢見ながら今日を「生きる」ことを正しいとの信仰を深めていく。

年期から老年期にかけて、「変化」は老衰を意味する様になる。つまり、自身の死が近付いてきている事への体感である。けれど、死そのものを体感できる訳ではない。だからこそ、恐ろしい。

+老衰と傷病という不可避の変化

の恐ろしさは、自身の生が死へ「変化」する事に対する危惧の体感であり、時間的老化だけでなく、重篤な傷病を患った時にも起こり得る。

衰や傷病によって今まで出来て居たコトが出来なくなり、新しいモノゴトも出来るだろうと思えばやはり出来ない、そして周囲の人々は簡単に出来て見せる。まるで社会共同体から不適応の烙印を押されたかの様に錯覚するだろう。

分の内部的な肉体的精神的能力的な衰え以外にも、周辺環境もまた刻一刻と「変化」していく。自分の知らないモノゴトは増え続け、自分の知っているモノゴトは忘れ去られ喪われていく。

れらの「変化」の体感の全てが自らの死を予感させるのだ。老衰や傷病以前の自分が感じていた「自身の思い通りになる」という体感は圧し折られる様にして、否定される。この否定されるかの様に感じさせる要因こそが「変化」である。

+変化から逃れる為の思想体系

準的なニンゲンにとって、「自身の死」は「変化」であり、また同時に「自身の死」は不可知でありながら別のカタチの「変化」を通して体感してしまう現象である。だからこそ、ニンゲンは「自身の死」と「変化」から目を逸らすことが正しいとする思想体系を構築し得るのである。

の思想体系の普遍的な例が、古今東西の宗教観における「死後の救済」である。死後の救済とは、極論すれば「貴方は、私は、ニンゲンは、死なない」という空想の共有である。

らゆる地球上の生物の死後は、ニンゲンを含めて、現代の科学力でも不可知の領域である。だからこそ、知性あるニンゲンは不明瞭に恐怖心を覚える。この恐怖心の根源はワカラナイであり、ワカラナイの原因は自分の死は一回しか起こり得ないであり、自身の死は「変化」という現象によって発生する。

に、多くの宗教観では「変化」を否定し、「自身の死」を否定し、ワカラナイをワカッタに替えてしまう。宗教観が謳う生死観は、生きている状態が死んだ状態への「変化」とは捉えずに、この世界から別の世界への「変動」として捉え直す。死後の自意識に関する観測は不可能であるが為に、この詭弁は成立し得る。

+自身の死の否定こそが「生きる」に正しき姿勢

して、不用意に自身の死を体感したニンゲンは宗教観を頼りにして、「自身の死」と「変化」を否定する。この否定こそが、真実となる。真実こそが安心の拠り所となる。自身が「生きる」を永遠のモノと再解釈し、自分は死なないと確信し、一所懸命に今日を「生きる」のである。

類は、その知性と発展を続ける社会共同体を通して、自身の死を克服する。厳密に言えば、その行為は逃避である。だが、現実的な効果としては有用である。

+永遠の生命の正体

身の死を自分自身から切り離し、別のモノとして扱い、自身の死を自身の「生きる」に一致させない混ぜない考えない。生命活動が停止する瞬間をも、自身の死は無く、在り続けるのは「生きる」であり、「生きる」が続くのである。

ンゲンはモノゴトの受け取り方に関して、天賦の才を持っている。だから、物理的な現実世界における「自身の死」という究極の変化も、「何も変わらない」と再解釈する事が出来る。

ンゲンの個人は、体感として受け取ったモノゴトだけが真実であり、それこそが世界なのである。故に、世界に変化は無く、世界は平穏であり、世界は既知であり、世界と共に自身も永遠に「生きる」が正しくなる。

はたして、ニンゲンはどうやったら「死ねる」のであろうか?

eof.

最後までお読み頂き、ありがとうございます。
宜しければ、スキフォローを押すと花言葉と共にお礼を申し上げます。
コメントして頂ければ、一層の励みになります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?