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死生想[2]-生き方は二元論的な一つの評価軸に基づく

生き馬の目を抜く程に急き立てられる様にして「生きる」をしようとするのはなぜなのか、死生想をする。
想うに、多くの人は自身が「生きる」事に無自覚であり、その「生きる」を支える欲求に無頓着であるが故に、急き立てられているのではないだろうか。
貴方が「自身がなぜ生きるのか」と問う方ならば是非読んで頂きたい、そして、貴方が「生きる事にそれを問う必要は無い」と信じる方ならば是非批判して頂きたい。


+隠された行動指針こそ「二元論的な一つの評価軸」

準的なニンゲンにとって、自身が「生きる」ことに無頓着であるのは平常である。だから、彼らに「どの様にして生きているのか」と問い掛けても、答えに窮してしまう。無理に答えようとしても、出てくるのは自身の職業や趣味または何らかの嗜好について語るに尽きるだろう。

ンゲンは基本的に自身が「生きる」ことに疑問を抱かない。それ故に、自身が「どの様にして生きているのか」も意識する必要が無い。だが、その様な多くの標準的なニンゲンは或る一定の法則に基づいて生活をしている。

楽と不快による二元論的な一つの評価軸を以って、ニンゲンは自身の生き方を定めているのだ。しかし、その決定は無自覚な選択でもある。自身が何を快楽として、何を不快として、どんな評価軸でモノゴトを判断しているか、基本的に意識へ上ることが無いまま、情緒に流されて決定していく。

+快楽を求める

楽とは、突き詰めれば、各種依存症に到達する。例えば、ヒトとの関係性に快楽を求め続けていけばストーカーとなり、アイドルや水商売に深入りすれば破産する程に貢ぐこととなる。ギャンブルによる喪失と逆転の快楽に溺れれば、自身の全てを賭けて破滅するまで続けるだろう。酒・タバコ・薬物も追求されるのは快楽であり、スポーツや危険なアクティビティも興奮を伴う出来事に対して放出される脳内麻薬への傾倒であり、つまり依存である。

度の差はあれど、親子関係において自身の夢想を投影すれば期待とは名ばかりの、親から子への成功体験の強要となる。他にも、一見すると堅実に思える様な、社会貢献に尽力する実業家も自身の快楽に溺れていないとは断言できない。自らが計画立案し実行した事業を通して、社会がより良くなっていく達成感、従業員が自分の計画通りに行動していく統制感、大衆から羨望を集める満足感、カネで好きなモノを買い込む事が出来る随意感、インタビューで語られる社会的な使命感や義務感は体の良い理屈に過ぎず、有能と言われる実業家を突き動かすのは自身の快楽感情に過ぎない。

ト・カネ・モノ・コト、何にしても快楽を追い求め続ける姿は、「生きる」に値する。その対象が崇高だろうが下賤だろうが、快楽と言う情緒に踊らされている事実は同等なのである。しかし、その快楽を生じさせているのは自分自身である事に気付かぬままに、快楽に酔い耽る。

+不快を遠ざける

快とは、突き詰めれば、完璧主義や潔癖症または神経症に到達する。例えば、他者から怒られるのを嫌うが故に、仕事のミスを徹底的に排除する様に働くこと、もしくはミスを徹底的に隠蔽または虚言によって回避しようとする。他者の言動が、自身の知っているまたは決まったルールに基づいていなければ、排斥したり矯正せずにはいられない。もっと単純ならば、目に見えないが在ると思い込んでいる不浄を嫌い、清浄にし続ける。

ンゲンは一種の宗教的呪術的な衛生観と逃走本能によって、不快と感じるモノゴトを回避または排除しようとする基本的な働きを持っている。

にヒトに対する不快は、強固な共同体を形成すると同時に強力な排他性を生じさせる。即ち、自分と他人の言動が限りなく一致している状態を不快では無いと感じ、逆に余所者の言動が自分達と異なれば異なる程に不快を覚える。その結末は敵対と排除そして規模が大きくなれば戦争となる。

た、この不快と感じて判断される行動は未知に対しても現れる。幽霊から仕組みの分からない最新技術、そして異文化との接触まで、ニンゲンは知らないモノゴトに不快を感じる。年齢を重ねて、自分には知らないモノゴトは無いと思い込んでいるニンゲン程、未知に対する不快度は高まるだろう。

快に集中することは、一般的な言説では悪だと示される。だが、ニンゲンは自身の理性的思考よりも遥かに多くのモノゴトに対して不快を覚えている。それこそ他人が音を立てて物を落としただけでも不快に感じ、自身は相手に悪感情を無自覚に抱く。そして、その不快を物理的に排除しようとするか、自身を不快から遠ざけようと働く。

分が損をしてでも相手に得をさせたくないのは、やはり自身の不快と言う情緒に従うが故である。しかし、その不快を生じさせているのは自分自身である事に気付かぬままに、不快に抗い悶える。

+快楽と不快の二元論が評価軸を形成する

楽も不快も本質は同じであり、自身を対象物に近付けたり、遠ざけさせようと、急き立てる衝動である。そして、この衝動性は、近付けば近付く程にまたは遠ざければ遠ざかる程に、より過激により過度により強く作用する。

から、快楽側は1しかメモリが無くても、不快には100段階のメモリがある者も居れば、その逆も然り。ニンゲンが自身を基準とした「普通」を宣う時に、1のメモリであればオールオアナッシングでモノゴトを捉えて全てを良い全てを悪いと思い、100段階もあればアレもコレもソレもナニも、と言った具合に目の前のあらゆるモノゴトに感情を揺さぶられる事となる。

うして、この快楽と不快と言う二元論は、個人が自身を含めたモノゴトを捉える時の評価軸を形成していく。この評価軸に基づいて、ニンゲンは努力をするし急き立てられもする。むしろ、自身の評価軸に則っている時に、ニンゲンは自身が「生きている」と実感すると言っても過言では無いだろう。

「生きる」が当たり前となっている普通のニンゲンにとって、モノゴトの快楽と不快は自身の強い原動力となっている反面、実に無自覚な作用として働いているのだ。

+評価軸は一人につき一つ

元論的な評価軸は、普通のニンゲンは一人につき一つを持つ。確かに、時間軸上において評価軸は変遷し得る。若い時と老いた時において、何を快楽に思い何を不快に思うかは、変わって当然だからだ。けれど、時間の断面で見れば、つまり、或る瞬間や一定の期間で見ると、自身がモノゴトを判断する評価軸は必ず一つに基づいて行われている。なぜならば、二元論でモノゴトを捉えて判断すると言うことは、快楽と不快を起こす対象の「それ以外」を排除して始めて成立するからである。

えば、食べ物の好き嫌いにおいて、ピーマンは嫌いだけどパプリカは好き、キャベツは嫌いだけどレタスは好き、と列挙していくとまるで多数の評価軸がある様に見える。だが、偏食を起こす二元論は自身の味覚・触覚と共に形成された記憶における快楽と不快であり、この経験的記憶が一つの評価軸なのである。

から、偏食家が未知の食べ物を食べた時にも、この自身の経験的記憶に基づいた一つの評価軸によって判断され、快楽か不快か、つまりは好きか嫌いかを判断する。見方をかえれば、自身の意志に関係なく一つの評価軸が勝手に判断してしまうとも言えるだろう。

にも、素人玄人を問わず一般的なレビューや批判において、対象に関しない的外れな意見に終始しているモノが存在するのも、筆者自身が無自覚なまま一つの評価軸でモノゴトを判断しているからだと言える。

えば、ネット通販のレビュー欄において、商品そのものではなく梱包材の傷付きや配送員の態度を問題に取り上げて低い評価をする。他人が見れば商品レビューとしては齟齬を感じる。しかし、書いている当人からすれば、至極真っ当な話をしているつもりなのである。

れは筆者自身の快楽と不快に関する一つの評価軸に基づいて、書かれた感想だからだ。想像するに、個人的感情と言える様なレビューをする筆者は、梱包材の傷付きや配送員の不躾な態度に接することで、自身が大切にされていないと感じるが故に、その精神的な傷付きを表現せんが為にレビューを書く。すると、商品レビューとしては見当違いではあるが、筆者本人にとっては切実な意見と成り得る。

ちろん、逆に快楽に傾倒した場合ならば、集約配送なのに配達が早かっただとか、まだ届いてないけど期待して高評価だとか、本人にとっては意味があっても、商品そのもののレビューとしては機能しない意見が発生するだろう。

+知性的な意見も書き手の気分を表しただけ

活をしていく中でニンゲンは自分の意見を持つ様になる。そして、言語能力や論理構築に長けていれば主義や主張を発言し、正義と悪、正しいと間違いを表現していく。更に、ソーシャルネットワークが発展した現代であれば、単純な意見であっても多くの賛同を得て、大きな時流を生み出す事もある。

うしてニンゲンは自身または他者を含めて、意見を大事とし、現実世界のあらゆるモノゴトを分別して断言していく。これは良い、あれは悪い、その組分けに関する理由付けや理屈の濃淡はあれども、ニンゲンは生活を通す中で良し悪しを当たり前の様に決めていく。

の前のモノゴト(現代で含まれるは発達したネットの画面越しに見るモノゴト)に対して、快刀乱麻を断つ意見を述べる行為を知性的または優秀なニンゲンであると規定され、尊敬されると同時に、多くの人々が真似るが如く分別を示す意見を発表したがる。特に現代では分別する意見が生活に密着し共感性が高い場合には、商業的価値が見いだされる。

的生活を送る現代人にとって、分別を示す意見は憧れだと言えるだろう。しかし、だが、分別すること、高い共感性を持つ良い悪いとは、突き詰めると快楽と不快と言う個人的感情に帰結し、同時に出発しているのである。

れほど理性的な面持ちをしながら発せられる意見であったとしても、その性根には自身の快楽と不快に基づく二元論的な一つの評価軸が関わっているのだ。そして、その一つの評価軸で見た世界が、モノゴトを分別する。目の前のモノゴトは自身にとって快楽か不快か、と無自覚に判別し、知性的な言語が巧みな表現で意見を形成するのである。

局のところ、さも理性的で知性的で建設的で論理的な意見であったとしても、その正体は感情的な理由に捕らわれた醜態であり、無自覚なまま自身の一つの評価軸に盲従しているだけなのである。

+知性的な言葉が覆い隠す本性

えば、公共の福祉に反してまで自身の意見を曲げない政治家や保身を第一とする独裁者にとって、言葉は武器である。故に、彼らの口から流れる言葉は理屈としては筋が通っている。

の理屈の通し方は、往々にして或る正義や或る倫理または或る道徳とした本人の外側にある社会的に正しいと認知されている理論を盾にしている。すると、彼らの話は至極真っ当である様に、多くの人を説得させる。

が、その社会的に正しい理屈の裏には、彼ら自身の守りたいモノゴトが隠されている。要するに、自身の地位や権力または資産である。政治家という社会的ステータスを背景にしたビジネスは、他者への奉仕よりも自己の維持継続発展を渇望させる。

うして、ビジネス第一の政治家は自身の一つの評価軸に従い服して、地位や権力または資産を、もっと得たい快楽、絶対に手放したくない不快、の二元論に急き立てられながら言葉を知的に理性的に建設的に論理的に語るのである。

えば、自身の主義主張に確信をもって行った重犯罪者の犯行理由は、一見すると筋の通った理屈として語られる。まるで起こるべくして当然起こったと、人々を説得させる様な意見を有している事が多々起こる。

かし、その主義主張によって世の中を良くしたいだとか正しさが有るだとか言う理屈は全くの上辺であり、その主義主張は分別をしているに過ぎないのである。その分別は重犯罪者の快楽と不快に基づいた感情であり、何らかの環境的または病理的な原因によって感情に歯止めが効かなくなった結果、自身の快楽または不快を犯罪行為の中で結実(カタルシス)させたのである。

行動機に主義主張の正誤は関係が無く、重犯罪と言う結果へ急き立てたのは自身の二元論的な一つの評価軸に従った為なのである。

た、重犯罪者の背景が「悲惨な」と形容される様な人生を歩んでいたとしても同様である。凶行に走らせるのも致し方ないと共感させる事態の裏にあるのも、重犯罪者が本人の快楽と不快に従った結果であり、同情や憤怒する部外者のニンゲン達も自身の快楽と不快に基づいた共感をしたから賛否の意見を呈していると言えるだろう。

+その意見に内省なき、在るは情緒の発露のみ

々の口から気軽に発せられる意見は、社会的に認められている正義であったとしても正しさを保証するものでは無い。その意見が発せられるのを裏付けているのは、発言した個人が持つ一つの評価軸に由来する。これは見方を変えれば、口を衝いて出る個人の意見は内容に関わらず本人の一つの評価軸における快楽か不快の感情表現が無自覚に発せられたこと、と言える。

に、この様な個人の意見に反省は有り得ない。より厳密に言うのならば、意見の反証を自身の内で経てから発せられる事が無い。この無反省な態度の原因は、一つの評価軸に従う為である。

自覚に一つの評価軸に従った状態では、モノゴトの判別を良いか悪いかでしか分別する事が出来ない。そのため、或る意見とその反意見を突き合わせる弁証法的な思考をしたくても、良し悪しでは無い別視点たる反意見の発想は生じ得ない。

に言えば、弁証法的な思考は、良し悪しの判別では無く、意見と反意見から新たな視点と意見を見つけ出す事に意義がある。ここに「批判」と言う言葉が一般的に誤謬を含む理由が示唆されていると言えるだろう。

の安い論評で語られる批判は、モノゴトの良し悪しに関する事に終始する。その結果、多くの人々は批判を良し悪しの分別だと認知する。だが、その分別をする批判の正体は、筆者が無自覚に従う自身の一つの評価軸である。

かし、本来の批判とは、対象の基準を肯定し、次にその基準と異なる反基準による肯定を示し、多角的に評価する事で対象の位置を明確にする行為である。であればこそ、本来の批判であれば対象の良し悪しを断定する事は有り得ないのである。

+二元論的な一つの評価軸は根源的欲求に裏打ちされる

ンゲンが持つ二元論的な一つの評価軸は、無自覚であればある程に本人から反省を失わせる。理由は、一つの評価軸を裏打ちし保証するのが、根源的欲求「死にたくない」「満たされたい」だからである。

物は、ニンゲンを含めて、自身の生存に疑問を抱かない。否、自らが生きて存在している事を疑ってはならないのである。故に、ニンゲンも基本的には自身の生存を疑わない。自身の生存を疑うことを知らない。それはつまり、根源的欲求「死にたくない」「満たされたい」に無自覚であり、同時に派生する二元論的な一つの評価軸にも無自覚である事を指し示す。

しも、自身が二元論的な一つの評価軸でモノゴトを快楽と不快に分別している事に気付けば、自身が根源的欲求「死にたくない」「満たされたい」に突き動かされている事に気付き、そして、自らが「生きる」ことに疑いが繋がってしまう。そうなれば、自分が「なぜ生きているのか」との迷いを生じさせる。そして答えの出ない苦悩は、自らが自らを殺せる事実に気付いてしまうのである。だから、無自覚で居る必要がある。知らなければ、探さないのだ。

れど、無自覚であっても要件は満たせる。二元論的な一つの評価軸の権能は、ニンゲンの個性と呼ばれる個々人の欲求を形成する。だから、欲求が起こる理由はさして重要では無く、重要なのは欲求が自らを突き動かすことである。

ト・モノ・カネ・地位・名誉・使命・義務・健康・平穏、ニンゲンが生きるにあたって目標にし目的とするモノゴトが明瞭であればある程に、そのニンゲンは目の前の現実世界を分別していく。その分別こそが二元論的な一つの評価軸であり、快楽と不快に分別された主観的世界は自分が従うべき欲求を叶えるモノゴトが浮き彫りとなり、自身を夢や希望または期待に向けて直進させるのである。

+二元論的な一つの評価軸は「生きる」の原動力たれば

するに、二元論的な一つの評価軸はニンゲンの生きる原動力を普遍的に表現した言葉でしかないのである。この無自覚なまま原動力の性質を発揮する現象をもって、利口を称する者は「生きることに理由は必要無い」と宣うのである。

かし、「生きる」と言う苦難に無頓着で居られるのは、自身の快楽と不快に集中して欲求に盲従しているからである。自身が知性と称する屋台骨が、快楽と不快で分別した一つの評価軸と言う感情で構築されている真実を知らない。だが、知らないで善いのである。知らない方が善いのである。

代人は夢や希望を追いかける事を自由と喧伝し、多くの人々が自身の子供に早ければ幼少期から英才教育を施して期待する。そして、子供達は疑い無く期待に応えようと努力を続ける。

会人たる労働者になれば更に切磋琢磨する事を求められ、自身も求め続けるを堅実とする。そうして目標に生きる事を急き立てられる自身が、全くの無自覚なまま二元論的な一つの評価軸に隷属している事を露知らずに、それこそが「生きる」であると胸を張りながら声高らかに謳歌する。

方はナニに快楽を覚え、ナニに不快を感じて、一つの評価軸を形成しているのか。決して、自身に問い質すべからず。

人類社会では「生きる」ことを疑ってはならない


――と致しますが故に。

eof.

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