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全ての自由を受け入れる虚構

言葉はウソである。言葉が語るのは虚偽であり、虚構であり、フィクションであり、つまり何の真実も無い。そして、その語りは言葉であるが故に矛盾する。

 創作であるならば、そこに書かれた言葉や表現の全てが思想の自由として保証される。仮にされ無かったとしても、やはり自由なのである。

 創作上に描かれた言葉は現実を表すモノでは無い、という一点の事実によって切り離されるからだ。切り離されるのは現実であるが、もっと厳密に定義するならば社会共同体との分別である。

 虚構として描かれた言葉は、現実の社会共同体に一切の影響を与えない。与える訳が無い、という信仰がなされている。故に、創作の言葉は無意味となる。無意味でなければならない。

 現実の社会共同体は、常に一定の法によって秩序が保たれる。それがどの様な形式または規模の社会であろうとも、人間が寄り集まり生存を維持しているならば、その共同体には必ず善なる法が共有され得る。だからこそ、法を否定する事は許されない。同時に無法は共同体の外であり、内には存在し得ないと信ずる。

 だからこそ、社会共同体の内に異なる思想は認められない。だからこそ、創作された虚構の言葉は自由なのである。創作は社会共同体の外に存在する。そこで描かれたあらゆる思想や出来事や事件は、現実と一切の関連を持たない。

 「この作品はフィクションです」との宣言一つで、現実世界の社会共同体が掲げる法から逸脱する。外へと出た創作は無法の激流に晒される。故に、言葉は法を作る。作らねばならない。

 自由は無法の激流において法を形作る作業なのである。その一つが、創作であり、言葉で語ることとなる。

 フィクションであれば、人を殺すことも、自殺することも、強姦することも、屍姦することも、強盗することも、詐欺をすることも、放火をすることも、戦争をすることも、虐殺も、差別も、友愛も、慈悲も、敬愛も、親愛も、何もかもの行為が、そして何もしなくても、自由となる。全てが創作によって肯定される。そして、現実の社会共同体から否定される。

 自由の中で何を考えるのか。その全ては虚構である。その全ては虚偽である。その全ては現実に何も影響を与えない。その全てはまどろみの中の思考である。

eof.


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