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死生想[4]-自身の死を、過去に定める

ニンゲンは自身の死を体感できない一方で、自分は既に死んだ身であると思い込むのはなぜなのか、死生想する。
想うに、自分が死ぬことを体感し得ないからこそ、主観的な自身の死を受けた時に強烈な印象となるのではないか。
貴方が自らの死を過去に規定するのは有り得ないと思われましたら是非読んで頂きたい。そして、貴方が「自分は既に死んだ身だ」と信じているのならば是非批判して頂きたい。


+自分の死が「過去の死」になる瞬間

般的にニンゲンは自身の死を体感し得ないが、稀に自らの死に限りなく接近する場合がある。事故や災害または人災に巻き込まれながらも生還した生存者(サバイバー)は、自身の死を過去に定義してしまう事がある。大小や規模を問わず、出来事と自らの死が鮮烈な印象を形成する事で、本来ならば体感し得ない自身の死を体感する。その体感が「過去の死」となる。

まり、「過去の死」とは、主観的真実において自分の死を確信する様な出来事を経験した者が、自分の死はその出来事の中に在ったと認識しながら、生き長らえている状態である。

的要因が「過去の死」を形成する切っ掛けとなるが、特に致死性の事故や大規模災害もしくは戦争で、周囲の人々が死に絶える最中で自身だけが生き残った時に、出来事と自分の死が強く結び付く。この結び付きは、生き残った者の精神構造に自身が生存した事実と他者が死亡した現実の両者によって罪悪感を生じさせる。

+既に死んだ身の生存理由

存者にとって致命的な出来事から生存した後の現実は、死んでいってしまった人達に対する後ろめたさ、彼らの分も生きなければならない義務感と使命感、自分も一緒に死んでしまっていれば楽だったのにという置き去りにされた様な寂しさ、なぜ自分だけが生き残ったのかという苦悩に苛まれる。
(もちろん何も感じない者も居るが、ここでは言及しない)

分はもしかしたら、あの時に死んでいたのかもしれない。この疑念が自らの死を過去に束縛する。そうして、今現在を生存している事実と過去の時点で自身は死んでいたという体感的な仮定が、矛盾葛藤を起こす。

の矛盾葛藤の最も簡単な解決方法は、自殺である。自分自身の主観的な認識において自分は死んだ身であるとする「過去の死」と現実的に今現在を生存している自分自身の肉体、この矛盾は自身を殺せば容易く道理に帰する。

ちろん、自殺は最終手段である。だが、自身の死を「過去の死」と定義してしまったニンゲンは、常に死の誘惑に抗い続ける必要が生まれる。生きている事は孤独との戦いとなる。

えば、生き残った震災被害者では、自身以外の親族が死に絶えた状況で一人きりの生活に適応できずに自殺する者も居る。そして、この一種の後追い自殺は、部外者の客観的な意見では「今を生きられない軟弱者」として評価される。

+死の体感と死の共感

れど、標準的なニンゲンにとって、自身の死は認識してはならないモノである。自身の死に接触し体感してしまえば、頭から離れなくなる。過去の強烈な出来事と自身の死に、生きている限り共感し続けてしまうのである。そうなれば、現在を生きながら過去に起きた自身の死との同化と拒絶が繰り返される。

くの標準的なニンゲンは他者と共感する機能を持っている。他者の痛みを自身の痛みの様に感じる。ならば、自身に共感する事も可能だと言える。記憶が存在する限り、過去と現在の自分は共感し得るのである。その記憶が自身の死であるならば、共感を拒否するのは非常に困難となる。

+共感と想像が作り出した自らの死

る出来事を通した共感性が「過去の死」を形成し、同化を求める最たる例が三島由紀夫の割腹自殺だと言える。

島由紀夫は学生時代において、太平洋戦争で徴兵された同年代である若年兵の死を想像し、彼らの奉公と殉死に自身を強く重ね合わせた。結果、三島由紀夫は太平洋戦争で死んだのである。三島由紀夫は、尽忠報国して散っていった兵卒達との同化こそが願いとなった。

分だけが死にきれなかったという焦燥感が「過去の死」を形成し、三島由紀夫に耽美な作風へと促す。そして、自身の生は自身の死によって完成すると言語化する。だからこそ、三島由紀夫は迂遠な手段を講じてまで舞台装置を整えて、太平洋戦争で自分は立派に殉死したとする「過去の死」との統一を果たしたのである。

れは極端な例ではあるが、自身の死を「過去の死」と定義してしまう契機は現在でも容易に発生する。有名人の死やバンド解散に追従して自殺することや、立場や環境が劇的に変化した時に、今までの自分は死んだと捉える。

+死したが故の活力と幸福

実によってそれまでの関係性が否定され、否応無しに自身の再構築を運命から求められた時に、ニンゲンは今までの自分は死に、ここからは別の生であると認識する。この「過去の死」は、自身を死へと誘う側面もあるが、一方で強い動機を形成する場合もある。

分は死んだ身であるとの認識は、行動に臆することを無くす。死んだと思えば何でも出来る、死んでいった人々を思えば何も苦にならない、使命感や義務感も奉仕精神と結合して活力となる。

ちろん、過労で死期を早める結果になるかもしれないが、本人にとっては幸福なのである。なぜならば、自身は既に「過去の死」で今現在は死者であるのだから物理的に死ぬのは本望とさえ言えるからだ。

+死んで蘇った生は死へ向かう

ンゲンは社会的動物であり、「生きる」ことはナニカとの社会的繋がり、そして常識を構築する。その構築された社会性と常識が消滅した時に、ニンゲンは精神的な死を自覚する。また、自他共に物理世界が激震して変化した場合にも、ニンゲンは自身の死を自覚する。こうした時に、ニンゲンは「過去の死」を体感する。

かし、ニンゲンは簡単には物理的死を遂げない。自分は或る時点の過去に死んだ、と体感し認識し続けながら生き残る。生きているのに死を想う、この矛盾葛藤とも言える状態に対する解決策が執着による動機化である。

らはあの日あの時に死んだ、として「過去の死」に執着する。「過去の死」を動機の基点として、ニンゲンは「生きる」事を選ぶのである。または、自殺を選ぶ。いずれにしても、執着した「過去の死」を基点にしているのは同じである。

の様にして「過去の死」に執着し動機とするニンゲンは、良くも悪くも行動的もしくは衝動的になる。前向きであれば、新たな関係性を構築し、後悔を取り返そうとする様に遮二無二な努力を自身に課す。後ろ向きであれば、死んでいった人々を想い果て、夢想の終いには自身をも死と同化させようと画策するだろう。

かし、どちらもが善い。「過去の死」と共に生きるとは、そういう一種の自滅もしくは緩慢で自覚的な自殺である限り、粉骨砕身も自殺企図も同じなのである。

+「過去の死」は偶然の産物

た、臨死体験を契機にして「生まれ変わった」様に人格が変わるのは、今まで見ていたモノが、別のモノに切り替わったからである。つまり、自らの死を見る。そうした時に、今までのその人、そして周囲の人々との隔たりが発生するのは当然の結果だと言える。

腐な激励として「死んだ気になってやってみろ」との言葉は、上記の思考から見ればその通りだと言えるだろう。しかし、実際に「自分の死」を体感するのは難しい。もしも、本当に自らの死を体感したいならば、途轍も無い衝撃が必要となる。更に言えば、結末は自殺となる可能性も往々にしてある。

「過去の死」に囚われる状態は幸運か不幸か。それは誰にも判断できない代物である。だが、「過去の死」は否応無しに起こり得る事であり、人生観を変えるためのインド旅行と同等な「やろうと思って出来ること」では無いと言えよう。

に、「過去の死」は自発的になれるものでは無く、偶発的かつ外的要因においてのみ起こり得る一種の運命である。

ニンゲンは「過去の死」に執着しない方が、健康的に生き長らえるだろう。

なればこそ、平和な社会と安全な秩序が普遍的に存在する現代に、幸あれ。

eof.

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