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死生想[5]-自身の死から目を背けて生きる価値

ニンゲンは「生きる」とした時に自分の死を忘却するが是とするのはなぜなのか、死生想をする。
想うに、ニンゲンは傲慢にも自らの死さえをも選択可能な主体的な手中に在ると思い込んでいるのではないだろうか。
貴方が人生を謳歌するのに自身の死を見つめる必要は無いと考えていれば是非読んで頂きたい、そして、貴方が自分の生死は自分で選ぶべきであると考えていれば是非批判して頂きたい。


+自身の死は隠されるが正しい生き方

準的なニンゲンにとって「自らは死ぬ」と言う現実は、今日ではない何時かに死ぬだろうとした「未来の死」、もしくは、自分は既に死んだ身であるから今日も死にはしないとした「過去の死」によって認識の外へと隠されている。

かし、平常な精神で「生きる」に自身の死を意識する必要は無いのである。むしろ、日々の生活の中で常に自らの死を想いながら「生きる」ことは不可能とは言わずとも、何らかの障害が発生するのは想像に難くないだろう。

からこそ、標準的なニンゲンは自らの死を顧みない。自身の死を「未来」または「過去」のモノゴトとして仮定する姿勢は、よりよく「生きる」事を実現させている。つまり、「生きる」の基礎となる根源的欲求たる「死にたくない」「満たされたい」を充足させる為に、「未来の死」または「過去の死」は機能しているのである。

に、自身の死を他人事の様に仮定することは、根源的欲求「満たされたい」を成立させる為に重要な働きをする。

身の死が仮定されて認識の外へ排除されると、ニンゲンは自らの死から解放される。つまり、自分は永遠の生存となる。もちろん、それは想像上の出来事であり、物質的な生命活動の停止機会は何時でも何処でも存在する。だが、精神的であろうとも自らの死から解放されれば、ニンゲンは自分自身の欲求を満たす事だけに集中できる。

の欲求を満たす集中の状態または環境こそが、根源的欲求「満たされたい」を成立させる為に必要な条件となる。

+未来に隠された自身の死の効能

「未来の死」があれば、希望を育てられる。自分が死ぬのは今日では無いとするからこそ、明日は良い日になると信じられる。今日が悪い日だったとしても明日になればきっと良い事がある、と信じられるのは自分は遠い何時かの未来に死ぬと信じているから、つまり自分は死なないと信じているからこそ、楽観する。これは「楽観が出来る」とも言い換えられる。

うして、「未来の死」に担保された希望が、根源的欲求「満たされたい」を充足させ続ける。主観的真実において永遠に続く明日を夢見る間、この次の瞬間に自分の欲望が満たされるかもしれない、と希望を抱き続けられる。こうして「満たされたい」感情に延々と明日への期待が焚べられ続ける。

ちろん、この期待と希望の行先に何も無かったとしても問題は無い。標準的なニンゲンにとって今日が幸せならば善いのである。そして、明日への期待と希望が今日の幸福なのである。だから、「まだ平気」「きっと大丈夫」「そのうち良くなる」とした楽観の姿勢の果てが、無自覚で緩慢な自らの死であろうとも、怠慢と油断による突然死だったとしても、今日を平穏に安心に生きる事が出来る。

+過去に隠された自身の死の効能

「過去の死」があれば、渇望に立ち向かえる。自身は既に死んだ身であると信じる事は、どの様な理由であれ、当人の認識から自身の死の杞憂から解放される。そして、胸の内に満たされるのは「生き残りの自負」「生かされている高揚」「すべきモノゴトへの責務」であり、使命感や義務感といった原動力となる。陳腐な言い回しならば、「今日を生かしてもらった感謝の念」で「生きる」のである。

うして、強力な目的意識に突き動かされ、「しなければならないモノゴト」と言う渇望に邁進していくのである。本人にとって、「すべき」以外の事柄は自分の死さえも度外視される。優先順位というよりも、自身が「生きる」ことの全ては「すべき」を達成または向かい続ける姿勢だけに塗り替えられるのだ。

かし、自身の死の杞憂を喪った者は、自身が死ぬ事に恐怖しなくなる。これは克服では無く、忘却である。義務や使命を達成する為の手段として「自死」が選択可能となる。この自死は、過度な努力や根性論による緩慢な自殺も該当する。つまり、過労死だ。当然、「すべきモノゴト」を完遂する為に自らの生命を殺す必要があれば、躊躇はしない。つまり、自死を顧みない自爆テロや思想を基にした重犯罪だ。

た、目的となる「すべき」が現実世界で叶わない場合も、「自死」を選択する。例えば、事故や災害で亡くなった家族や友人と再び逢う為に自殺する。周囲のニンゲンから見れば、理不尽な死に映るだろうが、本人にとっては合理的な選択であり、自身の目的たる渇望を満たす為には必要な行為であったと言える。

の様に述べると「過去の死」は自死へ向かう状態に見えるが、自死はあくまでも手段として選択可能になっただけである。「過去の死」も本質的には今日を「生きる」為となる。強力な目的意識が自身を動かし続け、環境の過酷さや苦境はどうあれ本人にとっては幸福に渇望を癒そうとして「生きる」ことが出来る。

+生きる意味は目を背けた自身の死に裏付けされる

準的なニンゲンにとって、自身の死を「未来」または「過去」のモノゴトとして自己と切り離すことは、今を「生きる」自分自身の意味に肯定と裏付けを与える。つまり、自身の死が生きている意味を形成する。

「未来の死」によって形成される生きている意味とは、自分は遠い未来に死ぬけれど、こうして生きている自分には「満たされたい」モノゴトが有り、明日も明後日もずっと先になれば「満たされたい」が満たされた未来が到来する筈だと確信した希望と期待になる。

から、もしも自分が死ぬ時とは、希望や期待が完全に満たされた時だけである。全てが満たされたから、自分は死ぬのだと信じながら生命活動を停止する。

「過去の死」によって形成される生きている意味とは、自分は既に死んだ身であるならば行動の一切は死を恐れること無く、生き残って生かされた事実には天啓に似た使命と義務が有り、ならば自分が「すべき」モノゴトを為さねばならないとして、渇望の達成手段となる。

から、もしも自分が死ぬ時とは、生かされ続け「すべき」ことをし続けて、遂に完遂しからこそ死ぬのである。ここまでの「すべき」モノゴトの最後を締める為に、自分は死ぬのだと信じながら生命活動を停止する。

+自らの死は自らのモノである

まり、標準的なニンゲンは自分の死を自らがどうにか出来るモノゴトとして、主体的に操作可能な要素であるとした歪んだ認識を持っていると言える。

の主体性を示す最たる例が「親から貰った生命を自ら断つとは不孝である」もしくは「親よりも先に死ぬ(病死・事故死を含む)とは不孝者である」といった孝行観である。

死における孝行観の前提にあるのは「自分が「生きる」は自分の選択による結果である」とした生死の主体性、そして、死は時系列的な順番に訪れるものであるとした誤謬。この二つの価値観から、親は先に死に子は次に死ぬとする先入観を形成する。

くの標準的なニンゲンにとって、自らが生存することは出来て当然の努力なのである。だからこそ、ニンゲンは「自分も何時かは死ぬ」と知識として理解しながらも、「自分は死なない」「偶然で死んでしまう訳がない」「殺される謂われはない」と体感的な盲信をする。

観的真実において、標準的なニンゲンは自分の死を主体的に捉え、故に、根源的欲求たる「死にたくない」「満たされたい」を優先することが出来るのだ。自分が生きるも死ぬも主体的に操作可能だと思い込めるからこそ、自身の死さえも生存への期待や希望もしくは原動力としての解釈を成立させる。

+自分は死なないと信じている者が正常者

分が生きるも死ぬも主体性の手中にあればこそ、自身の死を「未来」または「過去」に在ると信じる事が出来る。そうした世界観は自身が世界の中心、つまり自身の認識こそが基準であり自身の評価軸だけが世界の正しさとなる。

ちろん、個人によって程度の差はある。だが、自身の主体性を世界に投影する価値観は、多くの標準的なニンゲンに共通する無自覚な信仰である。

たり前の当然として「生きる」を尊重する姿勢は、自分自身の死から目を背けたが故に成立する虚像だ。それでもなお、ニンゲンは「生きる」からこそ、虚像こそが正しい姿勢であり正常な価値観であり、正気な者の証となる。

だから、ニンゲンは死んではいけないのである。

もしも、仮に、有り得ないが、ニンゲンが死ぬということは、自分が死んでしまうということは、もはや「生きる」を信じられなくなってしまう。

eof.

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