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空白に重ねる花びらと逃避

もう、二年が経ってしまった。どうあがいてももう戻ることができないと分かっていても、うまく自分を慣れさせようとしたし、結局うまくいかずに挫けたり、心が折れたりした。コロナ禍で、失ったものなんて数えきれないほどあると思う。好きな人を抱きしめること、会いたいと思う時にすぐに会いにいくこと、家族とお話しする時間、外国への旅、友達とした旅行に行こうと言う約束、自分のために、自分だけを大切にするひととき、逃げたい時に逃げていけた場所。

私は特に、自分を取り巻くこの状況から逃げたい、ただただ何者でもない自分を抱きしめて、世界を感じて、息をして、しっかり自分の足で踏み締めているという時間を持てる海外への一人旅が大好きでたまらなくて。だから、その逃避という行為を許されるその旅ができなくなったことで、とても不安定になってしまった。ただ私が私でいることを許される場所がなくなった気がした。

誰にも助けを乞えない、誰かに頼るなんて許されないと自分の首を絞めて、みんな頑張っているのに私だけ頑張ってない、いつも生活から逃げたいと思いながら逃げられない、ずっと頑張って走り抜かないといけないという切迫感を勝手に感じてあっという間に足を取られ砂に呑まれてしまった。

これまでの世界とまるで違う景色、感情、寂しさ、怖さを受け入れられなかった。泣いても何も変わらなかった。

その一方で、たくさんの優しさ、きっと愛だと思わせてくれる気持ち、あたたかさが滲んでずっと消えない言葉、存在の肯定を貰って、愛おしさを幾重にも感じて、大好きで思い出しては胸の奥が優しさで潰れてしまいそうだと思った。

自分が何度も諦めそうになって、自分の周りの世界と、情報の多さに怖くなってどこかに消えてしまいたいと思っても、私よりも私に対して諦めないでいてくれた人。ずっとずっと、不透明な時間と不確定な将来であるとわかってても会えることを楽しみにしてくれる人。大丈夫だからね、とそばにいてくれる人(これは物理的にだけではなくて、精神的な面でもそう)。日々の中で生きてる自分を褒めてあげて、拍手してあげてと言ってくれる人。その人それぞれにもたくさんの葛藤や苦悩、痛みや憂いがある中で、相手に言葉をかけてくれたり、あるいは言わずに取っといてくれたりすることがどれだけ優しさに溢れているか、この二年で痛いほど知った。

取り戻せない春も、夏も、秋も、冬も、ただの空白のようにしか思えなかった時間の方が多かった気がするけれど、そこに桜の花びらのような優しさと温かさをくれたのはいつも周りの大切な人だったと思っている。人をたくさん傷つけて、自分で自分を傷つけて、ボロボロだったことも認めたくなかったけれど、認められるようになったのは自分の力ではなくて、自分以外のみんなだったことに今更気づいた。手をひいてくれて照らしてくれるのは、自分に手を伸ばしてくれる、その人たちだったんだなあ。

どこかに、逃げたい気持ちをちゃんと置いていきたい。いつでも逃げられるように。いつでも、助けを求められるように。

自分の大事にしていた場所を無くして、世界が嫌になって、全部が灰色に見えて苦しくて寂しくて痛くて悲しいと思っていたら、その気持ちを全部ひっくるめて大きな塊にして置いていける場所がなくなったんだと実感することで、やっとその気持ちを置いていける空間ができるのかもしれない。失いが空白を埋めるかもしれない。また四月がきて、後何年こんな鬱屈した日々を過ごしたらいいのか、また一年頑張らなきゃいけないのか、って怯えて手も足も出ない時もたくさんくると思うけれど、失った分だけ、そこにたくさんの温度や木漏れ日のようなやさしさを手に握らせてくれるものや人がいると、祈りにも似た気持ちでいる。いつか自分の足で立てればいい。私も、あなたを照らすような小さい光になれたら嬉しい。

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